市川 房枝 明治26年(1893)5月15日〜昭和56年(1981)2月11日 |
大正〜昭和期の婦人運動家。
<生い立ち>
愛知県中島群明地村(尾西市)で、代々農業を生業としながら養蚕業をも営む中層地主の父・藤九郎、母・たつの三女として誕生し、「ふさゑ」と命名された。
兄・藤市、姉・すみ、たま、妹・清子、弟・武の6人きょうだいの四番目だった。上に姉がふたりいたせいか「もう女はたくさん、生まれて来なくてもよかったのに」とよくいわれたものだった、と房枝自身が『自叙伝 私の履歴書ほか』に述べている。そういえば、日本キリスト教婦人矯風会の会頭であり、女子学院院長であった矢嶋楫子もまた同様な扱いを家族から受け、名前すらすぐにはつけてもらえず、兄が庭の渋柿を思って「勝」と命名したとことに類似している。それだけ、女性に対する地位が低かったことが考えられる。
父は義侠心に富み、公共のために土地の寄付などもした。こうした親の姿は、上述した矢嶋楫子家にも見られ、苗字帯刀を許された。
12歳年長の兄・藤市は「東京の政治学校」で学び、アメリカへ出たが、その旅費等のために借家を売り払ったり借金をするなどで房枝の子ども時代の家計は苦しい状態であった。
そのために房枝は家が農家でありながら一升、二升と米を買いにやらされたことを覚えている。食事は、朝は芋粥、夜は大根の雑炊が主食で、弁当と仏様への“おぶくさま”のために、小さいナベで白い米を炊いた。「百姓」が好きではなかった父・籐九郎ではあったが、自分には教育がないが子どもたちには中等教育、高等教育を受けさせたいと、せっせと農業に従事したのだった。
母・たつの実家は籐九郎の家よりも財産のある家だった。母は全く文字を知らなかったが、記憶力は実に優れていた。たつの時代ではに女性が文字を知らないことは一般的である。房枝にとっての母は冷静で、頭がよく、しまりやでいくぶんこわい存在だった。
それにひきかえ父籐九郎は大まかで、かんしゃくもちで、虚栄心が強く、妻に対して大変な暴君で、げんこつだけでなく薪で殴りつけたりした。こうした光景を見た房枝は、なぜ女はこのように虐げられて厭なことも我慢して暮らさなければならないのだろうか、これがこの道を歩んだ根底にあると自伝に記している。
房枝は数えの7歳で明地村立明地尋常小学校に入学した。受け持ちの先生は校長夫人であった。入学してほどなく女先生が黒板に○△□を書いて、これは何かと房枝に質問したが、どれも回答できずに恥ずかしいおもいを房枝はした。
これが要因なのか、房枝は学校が好きになれず、お弁当を持って家を出るが、しいの実を拾いに行ったり、隣の納屋の中に隠れていたりして学校をよく休んだ。それでも4年間を過ごして卒業後の明治36年(1903)4月に起町外三ケ村学校組合率西北高等小学校に入学した。
同級生がおもしろいから読まないかと『不如帰』を貸してくれたが、房枝には少しもおもしろくなかった。むしろ、巖谷小波のおとぎ話をずいぶん読んだ。巌谷小波はキリスト教伝道者として、また教師として活躍した富森幽香の弟である。
房枝の家は真宗で東本願寺派であったが、村尾の旦那寺の息子が株をやったり芸者買いをしたりしてけしからんと憤慨している両親の非難を耳にしたせいか房枝は仏教が嫌いだった。きらいな仏教を日本に取り入れた聖徳太子の肖像が歴史の本に出てくると鉛筆で穴をあけたりした。そのため、日本は神国だと国学者の本居宣長、平田篤胤に傾倒した。修学旅行でもらった伊勢神宮のお札を自分の部屋にまつって“おけぞくさま”(正月のお餅)を供えたりした。
幼いころの親の影響、学校教育の影響が純粋な白紙の心に吸い取られるように書き込まれているさまが伺える。家では兄・藤市はアメリカへ、長姉は結婚、次姉は師範学校女子部に通っていたため、房枝が弟や妹の面倒を見ることになるばかりか、家事の手伝い、畑や養蚕の手伝いをしていたことも天性の素質に加えてしっかりものとして育ったのであろう。
高等小学校卒業を控えて、進路相談をアメリカの兄・藤市に相談したところ、アメリカに来たならば面倒をみて勉強をさせてあげるから役場を通じて渡米出願を出すようにと、返事が届いた。さっそく、役場に必要書類を提出したところ、二宮市の警察署から呼び出されて種々取り調べられた結果、未成年者ひとりの渡米に対して不許可だった。明治40年(1907)の14歳の大胆な計画であった。
<女子学院入学>
アメリカ行きを断念した房枝は翌年上京して三輪田高等女学校を受験した。が、まんまと不合格だった。近所の知人の口利きで女子学院を紹介され受験した。
矢嶋楫子が面接をした。「手織りの着物に田舎丸出し」の房枝を楫子はほめて、国語は3年生に合格、英語は1年から始めるようにとの通知を受け、女子学院がどのような学校なのかもわからないまま入学した。
当時の女子学院は午前中は英語ばかり、午後が日本語の数学、歴史、図面等々で、三谷民子による毎日聖書講義があった。昼食前と授業後には生徒らが集まって祈祷を行った。日本は神の国だと思っている房枝にとっては仏教もキリスト教もいやだった。
そうこうしているうちに国語伝習所の存在を知り、しかも伝習所の授業は女子学院の授業後に始まることが分かったので、さっそく手続きをした。そこに通うために女子学院のその日の最終授業が終わるのを待ちかねて通った。
国語伝習所では万葉集や十八史略などの講義があった。通学者のなかに房枝と同じく仏教もキリスト教も嫌いだという生徒がいて、当時、来日した救世軍のブース大将に天皇が拝謁を賜るのはけしからんと憤慨した。きっと、房枝と意気投合して話がはずんだことだろう。
一方、女子学院では授業後の祈祷会に出席していないと、言ってはお叱りの呼び出しがかかるし、6月25日地久節には学校はただ休日にするだけで何ら行事的なことのないことが不満であった。加えて、上京する際に持参した生活資金も少なくなってきたところへアメリカの兄からの送金はない。何かアルバイトを探さなければならなくなった。そこで、一枚2銭で筆耕のアルバイトをした。
さりとて女子学院は房枝にはなじめず、送金で親に心配をかけたくないとの思いから7月初旬には退学して郷里に戻った。結局、女子学院は3ヶ月の学びであった。
<15歳で代用教員>
明治41年(1908)7月に帰郷した。
まもなく隣村から代用教員の口がかかり、15歳の房代は、9月から萩原町立萩原尋常小学校の代用教員として月給5円で採用になった。勤務のかたわら準教員講習会を受けて試験に合格、月給8円となった。
その1月後、岡崎の愛知県第二師範学校女子部本科1年生になって学生に戻った。厳しい規律のなかでもテニスに夢中になれて楽しかった。このころから房代の国粋主義思想は薄れていった。その誘因として尊敬しているO先生に教会に連れて行かれたこともあるだろう。
明治45年(1912)19歳の房代はさらに名古屋に新設された愛知県女子師範が校に移った。しかし、新校長の良妻賢母教育に反発して同級生28名とストライキを起こし、授業には出るが無言で答弁しない、試験があったら白紙で出すと決めて翌日から実行した。校長には房代と副級長で面会し、28箇条の要求書を提出した。いくつかは取り上げられて改善され、新聞沙汰にならずに済んだ。
さらに学びたいと思った。師範学校の上級に進むためには女子高等師範学校しかなかった。奈良ならば無試験でよさそうだったが、それでは厭だったので、東京女子高等師範学校を受験した。が、あっさりと不合格になった。
ともあれ、無事に愛知県立女子師範学校を卒業して大正2年(1913)4月1日付で教員生活に入った。朝日尋常高等小学校の訓導となった。母校だった。
翌年の4月、20歳の房枝は、名古屋市第二高等小学校に転任し、そこで弟妹と3人で暮らした。その高等小学校2年生の女子組を担当したとき、房代の苦手な家事、料理を教授する必要が出た。前日魚屋で鱗の取り方、開き方、煮方などを教えてもらい、家で食べてみてから授業をおこなうこともあった。こうした準備をして授業に臨む教員としての当たり前のことが現在の教員世界に欠けていないだろうか、としみじみと反省させられる一こまである。
大正5年(1916)、同居していた弟・武が7月15日に脚気の衝心で急逝した。15歳だった。
『六合雑誌』に「不徹底なる良妻賢母主義」を投稿したところ掲載されもしたが、もっと勉強したいと願って師範学校時代のO先生に就職を依頼する一方で、あちらこちらの講習会に顔を出したり、教員同士で研究会をもったりした。このころ店頭で『青鞜』を購入して読んだが、おもしろくなかった。
<受洗>
名古屋に文化人グループがあったので、そこにも参加した。ところが、その中のひとりであった組合教会の牧師・金子白夢が主宰する哲学会にも出席しているうちに、とうとう洗礼を受けることになった。しかも、日曜学校の教師までやった。そのときの日曜学校長はのちに産児調節連盟で有名になられた馬島|で、当時は名古屋医専の学生であった。
房江について、次の記事が名古屋市ホームページに掲載されている。
当時、市立第二高等小学校の教師をしていた市川房枝も、その一人です。金子牧師によって洗礼を受けた彼女は、体をこわして職を失い、教会での縁をたよりに『名古屋新聞』主筆の小林橘川を訪ね、初の女性記者として働きはじめます。房枝の仕事ぶりはまわりも目を見張るほどのものでしたが、「デモクラシーの風に触れるには東京に行くしかない」と、翌大正7年8月に上京。以後、平塚らいてう等と『新婦人協会』を設立するなど、婦人解放運動の道をひた走ることになります。一方橘川は、戦後市政に転向し、名古屋市長を三期つとめますが、選挙の際には必ず応援演説をする房枝の姿がありました。橘川への感謝の気持ち、そして愛知教会で過ごした日々が、遠い記憶として彼女の中に残っていたにちがいありません。 |
勤務先の学校で購読していた読売新聞に1ページ大の婦人欄があり、小橋三四子が論説を担当していた。房枝は小橋に東京で働きたいと手紙を書いたが、地方にいるほうがよいとの返事だった。その後、小橋が『婦人週報』を創刊したので、読者になり、友人にも紹介した。
こうしたことから小橋三四子との交渉が始まり、房枝は小橋のパトロンであった広岡浅子女史が御殿場で開いていた夏季寮に勧誘され、参加した。大正5年(1916)の夏だった。
広岡は三井家の娘で大阪の富豪加島屋広岡信五郎と結婚して同家を再興したという女丈夫であったが、晩年宮川経輝から受洗し、御殿場でキリスト教の夏季講座を開催していたのであった。この会で甲府の山梨英和女学校で英語を担当していた安中(のち村岡)花子に出会った。
毎日の学校の勤務以外にも方々を飛び回り、他にも家庭教師もしていたので、まったく夕食等の準備どころでなかった。帰宅途中にきしめんで済ませるような日が続いた。この結果、過労と栄養不良、そして弟の死から受けた精神的打撃も加えて健康を損ねる状態になった。10月に肺尖カタルのため休職して知多半島で療養生活を送ることになった。
(途中まで・・・) |
たま
明治22年(1889)〜
昭和51年(1976)11月13日 |
大正・昭和期の教育者。愛知県生まれ。大正2年奈良女子高等師範学校研究科卒。岡山高等女学校、札幌高等女学校、朝鮮大田高等女学校、東京聖心高等女学校などで教鞭をとり、名古屋市立第一幼稚園園長などをつとめた。昭和17年(1942)から同37年まで実践女子学園に奉職し女子教育、幼児教育に尽力。同5年ホノルルで開催された第二回汎太平洋婦人会議に代表の一人として出席。婦選獲得同盟を手伝うなど婦選運動にも協力した。87歳で死没。 |
出 典 |
『市川房枝』 『キリスト教歴史』 『女性人名』
20世紀を先駆けた人たち http://www.city.nagoya.jp/ku/02ku/bunka2004/bunka2004-02/bunka2004-02.html
女性の政治参画 http://www.sole-kochi.or.jp/files/s162/vol015/page05.htm |