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   三谷 民子   明治6年(1873)2月16日〜昭和20年(1945)4月1日  
  明治〜昭和期の教育者。

 三谷宗兵衛とふさの長女として京都府岩滝町で誕生した。
 生家は造り酒屋だったが、父が家督を譲り受ける前から家業は傾いていたため、両親は民子を連れて郷里を飛び出し京都で貧乏暮らしをしたとのこと。

 やがて東京に出てきたため、民子は九段富士見小学校に入学した。それからまもなく生母ふさが死去した。
 民子は晩年に至るまで生母の眠る青山墓地に命日には欠かさず墓参していた。

 父・宗兵衛の3番目の妻こうとの間に第一高等学校教授三谷隆正、侍従長三谷隆信、山谷妙子、川西田鶴子、湯沢寿貞子が誕生した。大衆作家長谷川伸の「瞼の母」のモデルでもあった。民子とは異母きょうだいとなる。

 明治18年(1885)民子12歳のとき、父は民子を 女子学院の前身である桜井女学校の寄宿舎に入寮させ、校長の矢嶋楫子に教育を委ねた。当時は予科2年、普通科4年、高等科2年制度の教育課程であったが、学習結果によって飛び級による進級ができた。

 民子は明治23年(1890)15歳で、桜井女学校と新栄女学校が合併して女子学院と改称された一回生として卒業した。
 卒業後は新潟県高田女学校などで教壇に立ったのち、同29年母校女子学院の教師となった。その間に受洗した。

 検定試験で英語教員の免許を得た。 33年(1900)アメリカノースフィールド大学、イギリスオックスフォード大学に2年間留学し帰国した。女子学院高等部教諭として校長矢嶋楫子を助け、英語、聖書、西洋史などを教えた。

 大正9年(1920)ごろから内村鑑三と交流を持ち、その無教会的信仰に学ぶところがあった。弟の隆正と隆信が早く内村鑑三の門下生であったことが影響を与えたのであろう。

 昭和2年(1927)女子学院院長に就任した。教員と生徒の個性を自由に伸ばそうとする校風を培った。戦時下にあって政治的圧力を受けたが、それに屈することなく礼拝を宮城礼拝に変えることを拒んだ。院長として信仰による筋を通したことは困難な時勢に信仰を貫いている同信に力強いメッセージとなったであろう。戦時下におけるキリスト教主義学校が女子学院と同じ態度で臨んだ学校がある一方で、潮流に合わせた学校もあった。

 民子は、このほか女子青年会、婦人矯風会、婦人同志会、連合婦人会、愛国婦人会、少年保護婦人協会などでも活躍した。

 晩年は佐々木信綱に短歌を学んだ。
 植村正久の娘で牧師になったは女子学院で三谷民子から聖書、数学そして英文学の指導を受けた。
 現職院長のまま73歳で死去。

<やりかけ>
出 典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『植村 2』
女子学院 http://www.joshigakuin.ed.jp/index.htm