明治〜大正期のジャーナリスト
<生い立ち>
静岡県に小橋光次郎の二女として生まれた。
5歳で上京して府立第一高等女学校を卒業後、創設されたばかりの日本女子大学校国文学部に入学した。このころキリスト教に入信し受洗した。
明治37年(1904)第一回生とし日本女子大学校をて卒業した。
桜楓会が組織され、成瀬仁蔵校長の要請に応えて橋本(のち柳)八重子とともに日本女子大学校同窓会誌『家庭週報』(190号まで)、『家庭』の編集人をつとめた。
その後、日本YWCA機関紙『明治の女子』や、キリスト教婦人雑誌『新女界』(編集・海老名弾正、主筆・安井てつ)編集に参加した。大正3年(1914)4月からは『読売新聞』婦人付録の編集主任となる。当時の4月26日付の様子が、 同紙(平成14年6月20日)に紹介されている。
さらに同4年(1915)11月から8年(1919)7月11日まで『婦人週報』の発行ならびに編集人となった。三四子は女性に対する職業的訓練の必要を説き、さらに女性の地位向上のために男性の覚醒を説いた。同窓生で料理上手で評判の奥(当時和田)むめおが料理記事の連載をに掲載した。広岡浅子も執筆に協力した。
婦人記者倶楽部づくりに奔走し、日本基督教婦人矯風会の公娼全廃運動にも参加した。大沢豊子、竹中繁、波多野秋子、杉田鶴子、守屋東、ガントレット恒子らと親交を結んだ。
大正8年(1919)、更なる飛躍を志して渡米した。コロンビア大学で婦人問題や新聞学などを学び,欧州を廻って同10年(1921)12月に帰国した。さっそく主婦之友社に入社し、「サンガー夫人会見記」を書いたが、その直後、38歳で急逝した。
『婦人週報』は,『女性研究の夜明け』(大空社 1991)として復刻されている。
<やりかけ>
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