明治〜昭和期の社会運動家。恒子とも書く。
愛知県碧海郡箕輪村(安城市)に生まれる。父は山田謙造、母は久。弟に音楽家の山田耕筰がいる。
恒は、救ライ事業に生涯を捧げた牧師であり、医師であった叔父の大塚正心・かね(母の妹)夫妻の感化で早くから信仰と社会事業に目覚めた。
叔父の勧めで明治11年(1878)英女学家塾(桜井女学校)に入り、桜井ちかの薫陶を受ける。のち女子学院において矢嶋楫子に学び、前橋共愛女学校に赴任。
同31年エドワード・ガントレットと結婚。法的手続きをして英国籍を取得した我が国最初の事例となる。のち夫とともに日本に帰化して「岸登恒」とも称した。
34年から夫の任地岡山および山口に16年間居住し、6人の子を育てながら宣教師の通訳として伝道に協力した。のち上京して、桜井英語専門学校、東京女子大学や自由学園で教鞭をとりながら、日本基督教婦人矯風会の活動に携わり、婦人更正、廃娼運動に尽くした。久布白落実、守屋東とともに三羽烏と呼ばれた。
大正9年(1920)ロンドンで開催された矯風会万国大会に出席し、ジュネーブの婦人参政権協会の大会にも出席、帰国後婦人参政権協会の設立に尽力した。
昭和21年(1946)矯風会会頭に就任。婦選獲得運動、平和運動に貢献した。昭和9年から同11年まで続いた汎太平洋婦人会議で会長に選ばれ、のちに名誉会長に推された。
80歳で死没。著書に『七十七年の思ひ出』がある。
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