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大塚 かね    安政2年(1855)2月22日〜昭和21年(1946)4月11日
 明治〜昭和期の社会事業家。
 愛知県碧海郡榎前村に生まれた。かねの父・高橋清吾は福島藩の馬術の指南役をつとめていたが、藩主の国替えに随行して福島から三河国へ家族とともに移住した。
 かねの姉・久は、社会事業家として活躍したガントレット恒の母親である。かね夫妻の影響で恒が社会事業に早くから関心をもったと言われている。

 かねは、明治4年(1871)5月、大塚正心と結婚した。(注1)
 夫・大塚正心(1845−1926)は、静岡市出身である。正心の父・大塚玄龍(幕府の典医)は後に本田美作守(現在の岡山県)に仕えた。文久3年(1863)、洋書調所(もと洋学所)が開成所と改称された。この年、正心は早速入所してオランダ語と英語を学んだ。
 竹馬の友である石原量からキリスト教を説かれ、明治9年(1876)東京基督公会(現在の新栄教会)で、アメリカ長老教会宣教師・デヴィッド・タムソンから受洗した。その後、神奈川で施療所を開設していた医療宣教師ヘボンについて学んだ。

 かねてから正心は、医師たる者は病人の身体とともに魂も救わねばならない、と考えていたので神学校に入学した。明治19年(1886)、伝道師試験に合格した。明治21年、妻子を残して単身、鳥島に渡った。しかし、体調を崩して引き上げ、その後は静岡県御殿場の神山で伝道を開始した。そこにおいてカソリックのほかにもプロテスタント系のハンセン病患者のための病院の必要性を感じた。

 同23年(1890)、好善社を創立した宣教師ヤングマンと出会い、正心夫妻は意気投合。ハンセン病院の監督になった夫を助け、東京目黒の慰廃園では患者と一緒に入浴し、うみをぬぐってやるという毎日であったという。

 大正14年、夫に死別ののち、好善社の理事として慰廃園の経営にあたった。貞明皇太后(大正天皇の皇后)が救ライ事業に心を寄せてからは「目黒のとしより」と呼ばれ親しまれた。
注1 かねが結婚した年月については『福祉人名 1』を使用した。他書には「明治18年(1885)救ライ事業に精魂を傾けた医師であり、牧師である大塚正心と結婚。」とある。当時の婚期から推して、明治4年のほうが一般的と判断したことによる。なお、仔細な調査を必要とする。
好善社  明治10年(1877)、東京築地の新栄女学校(現在の女子学院)でヤングマンの呼びかけによって10名の生徒が集会をし、伝道と奉仕を目的として結社を組織したことに始まる。事務所を明治学院内に置き、最初は東京市内の日曜学校や伝道活動、孤児の養育に当たった。
 明治24年(1891)男子の入社を認めるなど新体制を整えて新社長として服部綾雄が就任。このころからハンセン病の女性患者の世話を始めたことをきっかけにハンセン病のために収容所の建設を決議し、種々の開拓的働きをなして行った。
宣教師ヤングマン
 
慰廃園  明治27年(1894)10月、宣教師ヤングマンを中心に「好善社」が、ハンセン病のキリスト教信者を救う目的で、東京・目黒に慰廃園を設立。その監督として大塚正心が着任し、妻・かねとともに患者の世話をした。資金難から昭和17年(1942)8月、閉鎖。入園者55名は全生園に収容され、48年間の活動を閉じた。
起廃病院  後藤昌文、昌直親子が私財を投げ打ってハンセン病患者のために日本で最初に建てた私立のハンセン病治療のための病院。450名ほどの患者が世話になった。後藤は早くから癩菌の感染力は弱く、完治すると強調した。
 明治初期の新聞に後藤親子の活動記事が掲載されている。ハワイの貴族からの要請で治療のために渡米もしている。国交のないビルマからの問い合わせには治療方法を送付するなど、親子でハンセン病のために尽力した。
 明治6年7月6日付「東京日日」に関係記事が掲載されているが、正確な開設日等については不詳。
 
出典 『福祉人名 1』 『七十七年の思ひ出』 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『足音は消えても』 『明治ニュース事典@』
http://www.eat-p.com/kusatsu/onsentiryou/hansen/hansen1.htm
http://www.jttk.zaq.ne.jp/babkz000/nenpyou-1.htm#1873
http://www.kt.rim.or.jp/~kozensha/CONTENTS/shoukai.htm  http://www.kt.rim.or.jp/~kozensha/CONTENTS/rekishi.htm
http://www.hosp.go.jp/~zenshoen/