徳永 恕  明治20年(1887)11月21日〜昭和48年(1973)1月11日
 明治〜昭和期の社会事業家。
 東京市牛込区下戸塚町(新宿区西早稲田)に生まれる。幼少時から銀座美以教会に通っていた。
 明治41年(1908)、東京府立第二高等女学校を終了後さらに補習科に進み、教員養成コースを修了した。同校在学中から四谷鮫ケ橋の私立二葉幼稚園の事業に奉仕、翌年卒業と同時に同園の保育に携わる。高女在学中にキリスト教に入信する一方,国禁の書である社会主義者の小説を読み、トルストイの人生論に耽った。また、結核を患った友人の看病のために欠席が多くなって、1年留年してしまうエピソードの持ち主でもあった。当時から他者を思いやり、献身的に奉仕する志の高い恕の片鱗が垣間見られ、同窓生らが恕を誇りに思っている気持ちが伝わってくる。

 大正5年(1916)保育園と改称(日本最初の保育園とされる)、その後は不就学児童のための小学部を設置し、同10年日本ではじめての母子寮「母の家}や5銭食堂などを創設して、園長野口幽香を助け救済事業に尽力する。

 昭和6年(1931)2代園長に就任、保育事業に精励した。また、青鞜派に心惹かれながらも自らは後衛をもって任じ、社会事業に専念した。その間、大正6年(1917)東京府慈善協会(東京都福祉事業協会)が結成されると理事になる。さらに府の共済委員制度の施行にあたって委員となり、事業の発展に貢献した。

 戦後も二葉乳児院、養護施設二葉学園を設立する一方、未亡人や戦争孤児浮浪児の収容保護に従事。また、東京都民生委員をはじめ中央児童福祉審議会委員、東京都社会福祉協議会委員を歴任した。

 昭和15年(1940)藍綬褒章、同37年度朝日賞(社会奉仕賞)、同39年勲4等瑞宝章を受ける。また、貧しい子どもたちの母として、子どもを抱える未亡人たちの相談相手となり、日夜の別なく地味で着実な活動につとめ、29年10月1日二人目の東京都名誉都民として顕彰された。

 「子どもたちの結ばれた人間です」と、生涯を独身で通し、85歳で死没。
 
 <やりかけ>
出典 『女性人名』
http://www2.tky.3web.ne.jp/~takehaya/100/100tusin.htm
http://www2.tky.3web.ne.jp/~takehaya/100/tu02a.htm