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 中田 かつ子    明治2年(1869)6月23日〜明治44年(1911)3月8日
 日本ホーリネス教会伝道師。日本ホーリネス教会創立者・中田重治の先妻。
 
<生い立ち> 
 500石取りの旧弘前藩士の父・小館仙之助と母・クニの次女として生まれた。居宅は青森県弘前市若党町の岩木川近くにあった。

 かつ子の姉は長じて大館家に嫁ぎ、2子の母親となった。兄の彦五郎は官吏として青森に住み、その息子の俊雄は東奥義塾の剣道教師兼舎監となった。妹のみわは竹浪孫六に嫁いだ。みわの長女うめは第16代弘前教会牧師宮崎繁一に嫁いだ。宮崎繁一牧師は初代の逗子教会牧師として主任牧師を務め、昭和57年(1982)に91歳で主の御前に召された。

 弘前教会は、明治8年(1875)「弘前公会」の名で創設された東北最初の教会で、アメリカ・メソジスト監督教会宣教師イング,J.(Ing,John)の元で洗礼を受けた人々が中心となって設立されたプロテスタントの教会で、現在の日本キリスト教団弘前教会である。

 イング,J.(Ing,John)は、明治7年(1874)中国伝道からの帰途、日本に立ち寄ったところを菊池九郎に迎えられて東奥義塾の教授となり、本多庸一らと協力して伝道し、弘前教会の発展の基礎を築いた。りんご栽培による経済的救済と福音による精神的救済を弘前にもたらした。同士とともに被差別部落への伝道を試み、商家の徒弟階級に夜学校を開いて啓蒙に努めた。また、東奥義塾の塾生のアメリカ留学の斡旋を行った。

 かつ子は、教育者を志して青森女子師範学校を16歳で卒業して、「青森県師範学校雇教員」の肩書きで教壇に立ち、18歳のときに弘前に移転して、来徳(らいと)女学校(弘前学院)の教師となった。この学校に後に夫となる中田重治が小使いとして働いていた。

<受洗> 
 このころ、かつ子は弘前教会相原英賢牧師に導かれて信仰生活に入って相原牧師から受洗した。弘前教会では中田久吉重治の兄弟に出会った。

<伝道者への決意> 
 かつ子は、明治21年(1888)、女子高等師範学校に入学して女流教育者になろうと志を立てて上京した。ところが当時の帝都の学生たちの風紀が乱れ、人心が腐敗していることを見て、「人々を知識的に教えるよりも、人々を心霊的に救うことが先決問題だ」と考え、初心を翻して伝道者になる決心をした。

 横浜の聖経女学校に入り、3年間の学びを終えたかつ子は弘前教会の婦人伝道師と任命されて、母教会に着任した。
 そのときの主任牧師は山鹿元次郎で、副牧師は益子恵之助であった。婦人宣教師としてミス・ボーカスが働いていた。かつ子は伝道師鈴木せんと入れ替わった。かつ子は主任牧師の指導の下で伝道に励み、教会経営の貧民学校でも教えた。また、教会員の相談相手をつとめた。

<結婚> 
 明治27年(1894)8月、山鹿元次郎の媒酌で千島択捉島で伝道していた中田重治と結婚して、二人で千島に渡った。決して生活環境の整った伝道地ではなく、経済的にも困窮をなめた。その約1年後、長男・左内が誕生した。悲しいことに、発育不良と風土病のため生後1ヶ月で死亡した。その後、かつ子も風土病にかかり重態となった。

 そのとき、夫の重治は上京中だった。重篤な体調を重治に知らせたいと思っても電報が通じない地域のために、普通郵便で容態を知らせた。20日余過ぎに東京で受け取った重治は、もはや妻・かつ子は永眠したかもしれないとの不安と焦燥に駆られながら、やっとの思いで択捉島に戻った。

 長男を生後1ヶ月で亡くした痛手と妻も亡くなるのではないかとの悲痛な愛情によって重治は択捉島を離れる決意をした。青白く今にも死にそうなかつ子は俄か作りの吊り台に寝かされた状態で4人がかりで担がれて乗船できた。

 北端千島の守りを固くしている郡司大尉と呼応して千島の人々の霊魂を導く幻を描いて千島伝道に意欲を持って献身した重治にとっては、途中で投げ出して引き上げる無念さで船の甲板から見送りの島の人々に向かって涙を流した。幸いにして船長がかつ子夫妻に同情的であったため、択捉島では味わうことのなかった豊かな食事を口にすることができ、体力も徐々に回復していった。

 弘前で静養したのち、夫とともに秋田大館に転任した。
 まだ毛馬内線もなく、十和田湖の風光を探る旅客がここを通過することも余りない、閑散とした町だった。松村彦吉という教会員が一人いたので、松村家で日曜学校から始めて、次第に集会に参加する人々が増してきた。松村彦吉の息子・清三郎は、のちにメソジスト教会の教職者として献身した。かつ子夫妻は、大館における初穂としての献身者を与えられたことに対して神の御名を崇めて神に感謝したことであろう。

 大館教会は明治20年11月10日、弘前出身の信徒伝道者・吉野撲水が、聖書配布の傍ら伝道をした結果、できた教会である。その初代信徒のなかから伝道者を輩出して、池田徳松、工藤官助、木村繁代などがメソジスト派の牧師となった。とはいえ、先任者の後を受けて4代目の奉仕者として赴任したかつ子たちは、民家を借りての集会のために苦労もあった。大館に会堂ができたのは昭和4年であった。

 ここで二男が生まれた。羽後の国にちなんで羽後と名づけた。
 羽後は、成長して教会音楽の面でキリスト教界に多大な貢献をした。『リワ"イワ"ル聖歌』や 『聖歌』はもとより日本基督教団讃美歌委員会編集の『讃美歌・讃美歌第二編』には「カルバリ山の」「シャロンの花」「キリストにはかえられません」の訳詞が収められている。宗教音楽として直接的でないが多くの人々に親しまれている「おぉ、牧場はみどり」の訳詞者でもある。かつ子が、もし生きていたならば、わが子が神に用いられていることに対してどんなに感謝の涙を流し神を賛美したことであろうか。

 明治44年(1911)8月27日、重治は、日本メソジスト秋田教会で奉仕をした。夫妻の母教会は伝道開始35周年記念会を9月1日より1週間開く予定をもっていた。メソジスト教会として相互に出席し奉仕をし、ともに神の御名を崇めている主にある兄弟姉妹の姿が実に浮かぶ思いである。とはいえ、かつ子は3月8日に召されたのだった。

<かつ子の死> 
 かつ子は、前年の12月初旬より異常懐胎で苦しんでいた。葡萄状妊娠と称するもので、日を追うことに苦痛が増し出血多量で貧血を起こして衰弱がひどくなった。角筈のある医師の一室を借りて静養していたが効果がなく、史を迎える数日前には腹膜炎を併発し、ついに危篤状態に陥った。夫の重治は子どもたちを枕元に呼び寄せようとしたが、間に合わなかった。数え年43歳のかつ子は羽後、陸奥、京、リリ、豊の5人の子を重治に託して天に召された

 かつ子は、ホーリネス教会創業時代の重治のよき協力者であり、理解者でもあった。重治が結婚前に失恋事件から人も道連れにして自殺を企てていたが、それを戒め救ってくれたのが、かつ子だった。また、重治はアメリカ留学前までは野心家伝道者だった。もう、貧乏伝道者をやめよう、と口走ったとき、かつ子は冗談にも程があると激しく戒め、留学に備えてひそかにj乏しい家計をやりくりして蓄え留学費用の一部にした。かつ子が重治を支え、留学後、メソジスト教会から独立してホーリネス教会形成の陰の支えになり、ホーリネス教会の母と多くの関係者から慕われた。

 墓地は、多磨霊園にある。
注1 誕生日:6月23日『中田重治傳』、7月31日『女性人名』
出 典 『中田重治傳』 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』 『秋田楢山教会百年史』 
『リワ"イワ"ル聖歌』 『聖歌』 『讃美歌・讃美歌第二編』

弘前学院大学 http://www.hirogaku-u.ac.jp/
日本基督教団弘前教会 http://www.hirosaki.co.jp/hirosaki/kankousisetu/youkan/kirisuto/
東奥日報 http://www.toonippo.co.jp/l-rensai/gunzo/
日本基督教団逗子教会 http://www.zushikyokai.or.jp/index.htm
千島列島 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6
郷土の偉人 http://www.edinet.ne.jp/~ken01/SHIRASE11.htm
おぉ、牧場はみどり http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/oomakibahamidori.htm
中田かつ子 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nakada_k.html

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