8/1/2018/WED
これが火星?
「火星大接近」と聞いて、昨夜、スマートフォンで撮影してみた。倍率は10倍。
うっすら橙色をとらえることができた。
「火星大接近」と聞いて、昨夜、スマートフォンで撮影してみた。倍率は10倍。
うっすら橙色をとらえることができた。
今でこそ怠けた暮らしを送っているけれど、初めからそうだったわけではない。
大学を受験するときには遮二無二勉強して、親の金で私大に行かせてもらった。
四十代には心が折れるほど働いて人並み以上に稼いだ。
格差社会と競争社会のおかげで「怠ける権利」を行使できている。
そのことを忘れてはならない。
私はいつも強者の側にいて、加害者の側にいた。
そのことを教えてくれたのは40歳になる間際に読んだ石原吉郎だった。
そして、もっとも輝いて強いと自分が思っていたとき、私はもっとも弱かった。
転がりはじめてからは落ちていくのは早かった。そこから先は「同じ話」なので繰り返すまい。
さくいん:石原吉郎
今日は出張。保育園に向かうために早く出た指導担当と一緒に帰路に着いた。電車でいろいろ雑談ができた。
親切な人が付いてくれて本当によかった。
1年8ヶ月経ってようやく会社に慣れてきた気がする。
仕事が終わり、一週間の夏休みが始まった。
今年は去年の夏、父と行くはずだった船旅。2泊3日で花火を観に行く計画を立てた。
ところが、台風13号の影響で出港は予定の9日から1日遅れ、旅程は1泊2日になると連絡が来た。
乗船予定の船は今、どこにいるのか。船の名前と「現在地」で検索したら面白いサイトを見つけた。
MarineTraffic。世界中の船がどこにいるのか、名前から速度から、リアルタイムですべてわかる。
乗船する船は6日には青森港にいた。これでは9日に横浜へ帰港するのは無理。それから、船は日本海に出て北まわりで航行していることがわかった。太平洋沿岸を航行している船はほとんどいない。
多くの船が太平洋を避けて関東へ戻ろうとしているせいか、関門海峡は大混雑。前回の『ブラタモリ』で見たとおりだった。
船は明日の夜に横浜に着くらしい。私たちが乗船できるのは明後日の昼ごろ。
さくいん:『ブラタモリ』
船を降りたあと、一人暮らしの家に帰すのは気の毒なので母と実家へ送って行った。
卒塔婆も来ていたので、昨日は盆の墓参りをした。お盆に合わせて墓参するのは久しぶりのこと。
墓前で、一緒に行くはずだった船旅に行ってきたことを伝えた。
父のご招待で船旅を楽しんだ、まさに我が家のこと。
場所は駅のホームの上にあるレストラン。電車が発車するたびに店が揺れる。
名目は彼の転職祝いだったけれど、どんな話をしたのか、あまり覚えていない。どれだけ呑んだのかも覚えていない。
夕方5時から11時まで、食べて呑んで、喋った。
心地よい会食とはそういうもの。仕事上の接待のように今更「相手との関係を構築する」必要はない。
他愛ない話もあれば、真剣な議論もあった。悲しみを分かち合うひとときもあった。
事細かに覚えていなくてもたっぷり充電できた気がする。
弱みをさらけ出せる関係っていいよね。
別れたあと、そんなメッセージが届いた。
そうかもしれない。「気がおけない」間柄とはきっとそういうもの。
昨日は一週間ぶりに出社した。ところが、社内も取引先も休みの人が多くて何も進まないので今日は休みにした。
一日、何もしていない。何をする気にもならない。本も読まない。音楽も聴かない。
うつの症状が身体に出ているのかもしれない。前にもこういうことがあった。
用心しなければ。
小平奈緒選手といえば、平昌オリンピックで金メダルを獲得したとき、2位のイ・サファン選手を讃えてことでよく知られている。
彼女の胸の内にグリーフとレジリエンスがあったことを知り、とても驚いている。
本来であれば、心の内だけで 秘密ににしておきたい悲しみを公開されることは「 悼み」の悲しみと同じくらい、悲しく辛いことだろう。
主将の重圧、金メダル候補の重圧、レースの重圧⋯⋯⋯⋯。さらに大会直前に抱えることになった悲しみ。五輪記録で優勝した「耐える力」に感慨を禁じ得ない。
彼女の悲嘆が誠実に癒されていることを願う。
さくいん:悲嘆・グリーフ
50歳を対象に自治体が行なっている内視鏡検査を受けた。
カメラを飲み込むときは心配していたほど苦しくはなかった。十分麻酔が効いていたからだろう。
この麻酔が濃く、かつ口元から喉まで広範囲に効いていて検査後も一時間近く辛かった。歯医者で使う麻酔が口全体を覆っている感じ。
唾を飲み込むこともできないし、咳もできない。「飲み込める」ことが 大事な機能であることを思い知らされた。
昨年の夏、父は「誤嚥性肺炎」になった。上手に飲み込めないので食べたものが気管支に入る危険があると説明を受けた。
この「飲み込めない」辛さが誤嚥性肺炎の痛みなのだろう。12月に亡くなるまで父はほとんど粥とゼリー食しか食べられなかった。
さぞかし辛かっただろう。
今日はきりくハンドベル・アンサンブルを聴きにイタリア文化会館へ来た。 市ヶ谷駅から道に迷って30分もかかってしまった。
会場にちなんでイタリア音楽を揃えた演目がよかった。
ヴィヴァルディで始まり、最後はニューシネマパラダイス、誰も寝てはならぬ。
アンコールは、ボサノバでオーソレミーオ、ボラーレ。
きりくはいつも進化している。毎回、新しいジャンルの曲や新しい演奏法を試みている。
今回の挑戦はグレゴリオ聖歌と「世界最古のメロディ」と言われる古代ギリシアの単線音の楽曲。吊るして叩くベルを見ていて銅鐸もこんな風に使われていたのかと想像して見た。
新しい試みがある代わりに、過去のコンサートでは目玉だった大曲がこなれた「定番」になっている。
アイリッシュ・ロックの"Gwersy"(KILA)然り、超絶技巧の「チャールダーシュ」然り。
去年のコンサートでは「ハンドベルはもう冬だけの楽器でじゃない」と書いた。今年は、ハンドベルは「夏に似合う楽器になった」と記して置きたい。
夏らしい爽やかな演奏に魅了された。
私の生活には一貫性がない、枠組みというものがない。
行き当たりばったりで不定形な暮らしを送っている。
こんな暮らしで日常を深く掴むことなどできるわけがない。
過去は目を逸らしたくなるほどダークだった。
過去を見つめられず、現在を生き抜くことができなくて、未来などあるはずがない。
見方をかえると、私の生活には全体がない。
近づいて部分部分を見るとうまく行っているように見える。少し離れて全体を見ると今にも崩れそうな、子どもが浜辺で作った砂の城に見える。さざ波にも流されてしまいそうに頼りない。
信仰や政治的信条を持っている人をうらやましく思うことがある。
自らを省みる基準や進んでいく指針が、いまの私にはない。
ペットボトルやカフェの飲み物を1日に何度も買っている人を見るととても裕福にみえる。
1日500円とすれば一月1万円になる。
そんな余裕のない倹約中の私は、家で37円の炭酸水を買い置きして会社の冷蔵庫にいれている。
プラス、85円の天然水、2リットルを月曜日に買い、金曜日に飲み干している。