御殿場から見た富士山

ここ数年、恒例となっている冬の家族旅行。今年は家族のリクエストに応えて、かつてよく行っていた義父の会社の保養所へ行くことにした。場所は御殿場。去年と同様、89歳の母も連れて行った。

新宿からJR御殿場線に乗り入れるロマンスカーふじさんで1時間45分。クルマならば近く感じる距離だろう。御殿場線が不便なので、鉄道だと箱根よりもずっと遠く感じる。

お昼は車内で済ませて到着してからまずアウトレットモールへ向かった。出来たばかりの頃に来た記憶がある。その頃はまだ店舗数も少なかった。

今回、行ってみると巨大化していてシリコンバレーへ出張したときに週末ドライブで行ったアウトレットモールを思い出した。保養所によく来ていたのも、私が頻繁に海外出張していた2000年から2008年のあいだ。今回の旅ではその期間の出来事をよく思い出した。

いつもやる気のない家族旅行。2日目は観光もせず、終日宿で過ごした。午前中はシアタールームで『ひとり紅白歌合戦』(桑田佳祐)を大画面・大音響で楽しんだ。午後はマッサージチェアでくつろぎ、プールで遊んで、のんびり温泉につかり、ラケットボールや卓球もした。合間には何もせず、ぼんやり富士山を眺める時間もあった。

富士山の風景は雲や雪の影響で刻一刻と変わる。この風景を毎日見て育ったら性格にまで影響がありそうな気がする。楽しみにしていた黄昏の赤い富士山は、残念ながら雲が重なり見られなかった。その代わりに、食堂から見た御殿場の夜景は美しかった。

毎年ここへ来ていたときもそうだった。どこへも出かけずに一日中、宿で遊んだ。シアタールームで『ナイトミュージアム』『銀河鉄道999』を観て、プールで長い時間遊んだ。

何度かリフォームをしているようだけど、基本的な内装は変わらない。大きなログハウスを思わせる木の多い質感と鉄細工の装飾。変わらない景色に昔のことがいろいろ思い出されてきた。

かつては父や母が子どもたちをあやしていた。今回は、子どもたちが認知症が始まっている母にいろいろ気遣いしてくれた。ありがたいことだった。

施設も料金も家族向けなので、今回も、小さな子どもを連れた3世代家族がたくさんいた。そんな家族連れを見て、なつかしくなり、スマホで当時の写真を探してみた。

すると、ベビーカーに乗った息子や浮き輪で泳ぐ娘の写真がたくさん出てきた。息子と娘は恥ずかしそうにしていたけれど、妻と私は無事に大きく育った喜びをかみしめた。

思えば、32歳から40歳にあたるあの頃は多忙な時期だった。会社のパソコンを持ち込み、仕事をすることもあった。家族に先入りしてもらい、自分はあとで成田空港から直行してきたこともあった。

それでも、当時はまだうつ病を発症するようなパワハラに遭遇していなかったし、スタートアップで昼夜問わず働く過労状態も始まっていなかった。

子どもが自立する思春期前に、ここでたくさんの時間を過ごせたのは幸福だった。

露天風呂に入り、富士山を眺めていたら、自然と2000年から現在までの25年を振り返っていた。最初の14年間は外資系ハイテクメーカーで営業職をしていた。それから2年間うつ病で休職した。そのあと障害者枠の契約社員になり現在に至る。これから65歳まで働くとなるとあと8年ある。私の職業人生のうち大半は障害者枠の非正規雇用ということになる。

人生とは思った通りになるものではない。それにしても、こういう展開になるとは、ここへ通っていた頃には思ってもいなかった。昇給・昇格を伴う転職を重ねて、いつか小さな所帯の何某Japanの社長になれると本気で信じていた。もっとも、そのための努力を真剣にしていたとは言えない。ゴルフはしなかったし、積極的に客を接待したりもしなかった。何より家族と過ごす時間を優先していた。ここへ頻繁に来ていたのがその証拠。

子どもたちはそれぞれ独立したけれど、こうして一緒に旅行をしてくれる。それは、とてもありがたいこと。もし家庭を顧みずに仕事だけに奔走していたら、こんな関係を作ることはできなかっただろう。妻との関係も同じ。

帰りはタクシーを頼み、ポーラ美術館へ立ち寄った。美術館のあとはバスで強羅に出て、登山鉄道で箱根湯本まで降りてロマンスカーで帰京した。

楽しく過ごす裏で、心のなかでは過去を振り返る旅になった。

ロビーの天井 鉄細工の装飾 昼間の富士山 夕暮れの富士山

さくいん:御殿場シリコンバレー桑田佳祐『銀河鉄道999』HOME(家族)