神代植物公園のスイレン

先月からの悲嘆モードがまだ続いている。何を見ても、何を聴いても、悲しくなり、泣きそうになる。何をする気も起きない。集中力を欠いて、仕事もテキトーにやり過ごしている。

『君の膵臓をたべたい』まだ、観てる聴いている

短いあいだだったけど
そばにいてくれてうれしかったよ
ありがとう

先週はこの台詞に何度も涙した。映画では、二人が一緒に過ごしたのは2ヶ月程度。

私は1年半くらい、あの人のそばにいた。大学を休学していたから、家で一緒にいることが多かった。一緒に音楽を聴き二人で出かけて、いろんな話をした。

それなのに、あの人は「ありがとう」どころか、「さよなら」も言わずに立ち去った

「生きて」という一言さえ私も伝えられなかった。今頃になって悔やんでいる。


今年は、自分が抱える悲嘆に一つ区切りについたように思っていた。それが、一本の映画で崩れてしまい、40年前の通夜の日まで気持ちが逆戻りしたような気がしている。

胸が苦しくて、とても悲しい。


感傷的になっている理由はほかにもある。

先月の末、恩人と呼びたい人が亡くなった。今月は叔父の命日があり、来月は大学時代の友人の命日が巡ってくる。

どの人も早すぎる別れだった。それを考えると、とても苦しい気持ちになる。

耐えきれず、愚痴だけの情けないツィートをした。弱気になっていたので、思わずカミングアウトのツィートまでしようとした。

苦しい気持ちを吐き出さずにはいられなかった。

それでも、下書きまでしたところで思いとどまった。


私がどんな境遇の人間で、何を秘密にしているかは、『烏兎の庭』を読めばすぐにわかる。

ここ以外では、秘密について書くことはしない。

ここでも、実はまだきちんと直接的な言葉では表現していない。まだ、ためらいがある。

読む人によっては、もうあからさまに書いているように見えるかもしれない。自分ではまだ核心を突いた表現はしていないと思っている。「私は○○です」とは書いていない。

書いてしまえば読む人は皆、「○○な人」としてしか私を見なくなる。会社で「ビョーキの人」としてしか私が見られていないように。

それが嫌だから、遠回しな書き方しかしない。


昨日は月に一度の診察日。上に書いた最近の心境をまとめてS先生に話した。先生は確かに話は聴いてくれた。でも、「それは辛い一ヶ月でしたね」と言う以上、深く聴きとることも、励ますこともしなかった。

精神科医は不安やうつを軽くする処方箋は出せても、悲しみを和らげる処方箋は出せないみたい。

これまでは否定的だったカウンセリングについて、希望があれば紹介すると言ってくれた。医者ができることはここまで、と線引きされたような気がした。

カウンセリングにはまだ抵抗がある。かといって、今の異常な心理状態のままでは心が疲労困憊する一方。何とかしなければならない。

グリーフ・ワークの本を一冊、注文した。カウンセリングについては、その本を読んでから考える。まずは一人でできることから。


さくいん:悲嘆『君の膵臓をたべたい』秘密S先生