二本松少年隊に関わる人々

岡山篤次郎 13歳


戦死の地碑(左)
大隣寺の入り口、左側
 篤次郎は、砲術師範・木村銃太郎の初めての門下生になった少年である。肖像画などは無いが、美少年であったらしい記述をよく見かける。
『眉目秀麗、仲間きっての美少年』(銃太郎談)
『なかなかめんごい顔をした利口者で、きかん坊であった』(兄嫁談)
また、成績も優秀であったらしい。
 出陣に際して、母に頼んで、身に着ける物すべて(着物をはじめ手拭いに至るまで)に『二本松藩士岡山篤次郎十三歳』と書いてもらったという。 母が屍を探す時に分かりやすいようにと言う理由らしい。その時、字が下手だと敵に嘲笑われるとも言っていたそうだ。 皮肉にも後、それが役に立った訳である。
 大壇口が破れ城下に引き上げの途中、大隣寺付近まで差し掛かった所で敵の銃撃を受け、二階堂衛守と篤次郎の二人が倒れた。 衛守は即死、篤次郎は瀕死の重傷を負った。(腹部貫通と伝えられている)
 重傷の篤次郎は、敵の土佐藩士によって野戦病院になっていた称念寺に運ばれた。 介抱にあたった西軍隊長・土佐藩士の広田弘道は『是非回復させ養子に貰い受けたい』と言っていたらしい。

 篤次郎はうわ言に『銃をよこせ』『残念』など叫びつつその日の内に息絶えた。広田はこの勇敢な少年に対して反感状を送った。 反感状は碑となって残されている。
 紺野庫治先生の執筆された『武士道〜二本松少年隊の記録』では、この碑について碑の文字が読めなくなる日も遠くはないだろうと 記述しているが、残念ながらその通りで平成13年、私が初めて篤次郎の墓所を訪れた時、すでに肉眼で見る事は出来ず、 手でなぞってみても読む事はできなくなっていた。

    没 1868年7月29日  享年 13歳
        墓所 二本松市蓮華寺