二本松少年隊の物語

動乱の幕末

 討幕派の勢力が強まる江戸末期、慶応3年(1867)秋。時の将軍・徳川15代目慶喜は大政を奉還する事を決意する。それを機に討幕派、薩長連合は佐幕派の一掃に出る。 明けて4年(1868)討幕軍は勤王を掲げ自らを官軍、対する佐幕派を賊軍とし、幕府に肩入れする者達を次々追い込んで行く。 勤旗の前に、ある者は討幕派に一転し、またある者は勤王派であるのにも関わらず朝敵とされた事に困惑を抱く。 そんな中、将軍・慶喜から絶対的な信頼を得る、奥州会津の藩主・松平容保は幕府と運命を共にする事となる。
 朝廷は、奥羽諸藩をまとめ討幕軍の応援をする事を秋田藩に命じ、仙台藩には会津討伐を命じる。 奥羽諸藩は、隣国会津に加担すべきか勤王を貫くべきか、度々会議を重ねた。 そんな頃、討伐軍より一足早く奥羽鎮撫軍なる一行が奥州入りし、仙台藩に乗り込み、会津だけでなく、朝廷に弓を引いた事のない庄内藩の征伐まで命じる。 これには東北諸藩も疑惑を抱かずにはいられなかった。仙台藩は、奥羽鎮撫参謀の世良修三が本軍に宛てた密書を開いてしまう。 そこには『奥羽皆敵』としたためてあった。藩士らは世良を襲撃、処刑した。この一件により東北31藩はひとつになり、薩長の新政府に対抗する事となる。 奥羽越列藩同盟の誕生である。

その頃の二本松藩

 慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦い開戦、ついに戊辰戦争戦争が始まる。二本松藩は、どう立ち回るべきか大きく揺れ動いていた。 そんな頃、砲術師範木村貫治の長男、木村銃太郎が江戸での砲術修行を終え帰藩する。銃太郎は砲術道場を開門、少年達の指導をする事になる。 まだ平和な二本松とはいえ、朝敵が会津とされている事に、少年達も動揺を隠せなかった。 会津では少年兵だけで成る白虎隊が結成されたと知り、いつかは自分達も主君のために戦いたいと思うのであった。
 鳥羽伏見で勝利を収めた薩長の新政府軍は、東北へ進撃。奥羽越列藩同盟に名前を連ねた二本松も、東北各地の戦線へ応援兵を出す事を余儀なくされる。 少年達は出陣して行く父や兄を羨望のまなざしで見送る。増々戦火の色が濃くなる現状を知り、少年達は会津・白虎隊のように少年兵の出陣を嘆願する。 しかし白虎隊は16〜17歳の少年達、出陣の嘆願をしていた二本松の少年達は13〜14歳。当然、聞き入れてもらえる事はなく、嘆願は何度も取り下げられた。 新政府軍はすぐそこまで迫っていた。各地に応援兵を出してしまった二本松藩は、残る兵力の薄さから、遂に少年達に出陣の許可を出すのである。 二本松・霞ヶ城の落城、わずか2日前であったという。