二本松藩主、丹羽家

初代藩主、光重公と提灯祭

 寛永二十年、光重公が二本松藩に入府した際、先ず最初に行ったのは城下町の整備である。
入府の翌年、正保元年より明暦元年までの十一年に渡り、社寺の移転、郭内の家中屋敷と郭外の庶民との分離を行った。
城郭の修築と併行し、行政府、学館(敬学館)、武家屋敷、水道開鑿等々、施設や市街地の整備に尽力した。
更に、移封から十八年後の寛文元年、「良い政治を行うためには、領民の敬神の意を高める事が必要である」と考え、 領民の誰もが身分に関わらず参拝できる様にと、塩沢村・田地が岡から、栗が柵へと二本松神社を移動した。これを領内の総鎮守と定めた。
 寛文四年八月十五日、盛大な祭礼(二本松神社例大祭)では、神輿を出した。それが、『二本松提灯祭り』の始まりであると言われている。
 当時の祭の規模や、太鼓台の登場がいつ頃だったのかなどは定かではないが、寛政三年の『御祭礼行列書上帳』には、 太鼓台の文字が記述されている事が『二本松市史』により判っている。
また、『田間日誌抄』には「文政二年此年二本松城下並に本宮に屋台始まる」との一文があり、この「屋台」と言うのが、 現在の太鼓台の初代であるとの証明も成されているようだ。
                                    ※参考:『郭内太鼓台新調と修繕の記録』

五代藩主、高寛公と戒石銘

 霞ヶ城公園の東側入口、ここにはかつて二本松藩庁が置かれていた。その向かい側にある大きな自然石(花崗石)に刻まれているのが『戒石銘』 である。
 五代藩主・高寛公の時代、藩政改革に幾つかの問題を抱えており、その打開策に頭を悩ませていた頃、家老・丹羽忠亮の伝手により 下野国出身の儒学者、岩井田昨非が二本松藩に召し抱えられる事になった。
昨非は享保十九年に二本松に着任すると、それまでには無かった文武両道の義務化などの教育制度を始め、軍政、士制、刑率、民政など、 次々と改革して行った。
 さて寛延二年、中国が起源とされる『戒石銘』を高寛公に進言した所、碑文の刻銘を命じられる。
この時、高寛公はすでに隠居しており、時世は六代藩主・高庸公に引き継がれていた。

    爾 俸 爾 禄 → 爾(なんじ)の俸(ほう)爾(なんじ)の禄(ろく)は
    民 膏 民 脂 → 民(たみ)の膏(こう)民(たみ)の脂(し)なり
    下 民 易 虐 → 下民(かみん)は虐(しいた)げ易(やす)きも
    上 天 難 欺 → 上天(じょうてん)は欺(あざむ)き難(がた)し

 碑文の意味は次の通りである。
『お前(武士)の俸給は、人民が脂して働いた賜物より得ているのであるから、人民に感謝しいたわらなければならない。
この気持ちを忘れて弱い人民を虐げたりすると、きっと天罰があるだろう。』

 藩士の戒めとして、このような意味を持つ碑文を刻んだのだが、この年は凶作であり、年貢米の減免を訴えている状況下で、 碑文の意味を『下民は欺き易い、虐げて膏脂を絞り、お前の俸禄とせよ』と、本来の意味とは全く逆の解釈をした者がそれを領民に伝え、 農民集団による一揆にまで発展した。しかし、昨非は自ら一揆鎮圧に努め、誤解は解かれたと言う。

丹羽家と赤穂浪士

 丹羽家は、忠臣蔵でお馴染みの赤穂浪士と深いかかわりがある。
長重公の三女(光重公の姉)が、浅野内匠頭長直に嫁いでいる。忠臣蔵の『浅野内匠頭長矩』は、長直の孫にあたる。丹羽家と浅野家は親戚関係になるのだ。
 二本松には古くから伝えられる伝統の剣術がある。「敵を斬ってはならぬ、一心に突け」
松の廊下刃傷で吉良上野介に斬り掛かり、無念にも思いを遂げる事が出来なかった浅野公、何故突かずに斬ったのかと、光重公は大層悔しがったと言う。
伝来の剣術が、松の廊下刃傷で得た教訓なのか、それ以前からのものなのかは定かで無い。