戦国大名・丹羽長秀

丹羽家の始祖

 今をさかのぼる事1300年程前、時は奈良・平安時代。第五十代天皇・桓武天皇の第十七子「安世王」が、丹羽家の先祖と言われている。
 鎌倉時代、武蔵七党のひとつ、武蔵国(現埼玉県)児玉党に属しており、後、尾張国丹羽郡児玉村に移住。
 室町時代には、幕府三管領の筆頭で、越前・尾張両国の守護職である斯波氏に仕えた。その二十六代・高宗の時には「児玉」を名乗り、 三十代・忠長の代から「丹羽」姓に改めた。(時には「小島」「野呂」と称した事もあったと言う)
 忠長の子・長政は斯波義敏に仕えたが、長政の二男・長秀は斯波氏の守護代、織田家に仕えた。
その後、織田家の重臣となった丹羽長秀が、丹羽家の初代とされている。

丹羽家初代・丹羽長秀

 天文4年(1535)、丹羽修理亮長政の第二子として誕生。幼名を万千代、後に五郎左衛門と称す。
 天文19年(1550)、15歳にして織田信長に仕えた。
 翌20年、織田彦五郎攻めの際、16歳にて初陣。敵の首を捕り、刀に付いた血を踏込の左方で拭った。 また、二つめの首を捕った際にも刀の血を踏込で拭った所、その血が筋違いに付着した。初陣、初手柄が理由なのか、その形状を御紋に、 最初は「血書棒」と呼称し、後に丹羽家の家紋「違い棒」と言われる様になったとの言い伝えがある。
 永禄3年(1560)、桶狭間の合戦。数々の武功の末、織田家の重臣となる。
永禄5年(1562)、織田信長は、異母兄である織田信広の娘を長秀に嫁がせ、織田家の老臣として軍事・民事を支配させる事となる。
 元亀元年(1570)、姉川の戦い。浅井長政・朝倉義景討伐に、信長の武将として活躍。浅井氏の居城・近江国の佐和山城を攻め落とした。
 翌2年、佐和山城5万石を拝領し、初めて戦国大名となる。 この時、以前からの所有領地である尾張国・美濃国の一部、13万石と合わせて、所領高は18万石となった。
 天正4年(1576)、安土城完成。安土築城の際、長秀は築城奉行を務めている。
 天正10年(1582)、明智光秀の謀反、本能寺の変。信長の死後、長秀の立場は一変する。以前の部下であった羽柴秀吉が、 山崎の戦いで明智を討つと、機を逃した長秀は秀吉の属下となるのである。その秀吉より、若狭国と近江国内の志賀・高島の二郡を与えられる。
 翌11年、賎ヶ岳・北ノ庄の戦い。長秀は織田家の双壁と言われた、同僚の柴田勝家を攻め滅ぼした。秀吉はその戦功として、 越前国・加賀国内の二郡を加増、丹羽家は123万石の大々名となった。

米の五郎左

 織田信長は、長秀の事を『米五郎左』と呼んだ。米は日本人の主食に無くてはならない大切な物であり、長秀もまた、 織田軍にとって必要不可欠な存在であると言う事を示している。
 古い文献に寄ると、丹羽長秀と言う人物は、温和にして喜怒を表には出さず、寛大な気性の方であった事が記されている。 かの豊臣秀吉が若い頃、丹羽長秀と柴田勝家からその姓を一文字ずつ頂いて『羽柴』と名乗った事からも、 長重がどれ程の人物であったのかが伺える。
 長秀の一番の功績は、何と言っても安土築城奉行を務めた事であろう。ともすれば、長秀の才覚は戦以外の所にあったのかも知れない。