伊達氏と畠山氏

奥州探題

 奥州の歴史を訪ねて行くと「奥州探題」と言う言葉を耳にする。 奥州探題とは何か? と思われる方も少なく無いだろう。 さかのぼってみると「奥州総大将」と呼ばれたものが、後に「奥州探題」と移り変わって行く。

 1333年(元弘3年)南北朝時代の始まりに、鎌倉時代までの地方守護を廃止し、代わりに国司と言う役職を地方に配置した。 当時の東北地方では、陸奥国(奥州)国司に北畠顕家を、出羽国(羽州)国司に葉室光顕を任命する。 二年の歳月の内に北畠氏は建武政権の信頼のもと、陸奥将軍府と呼ばれる支配機関を創設した。 この「陸奥将軍府」とは、各郡の力のある武士に郡奉行と言う役職を与え、かつての守護並みの権力を持たせ政権を行い、 北畠氏は奥州各地の武士から絶大な支持を集めた。
 1335年(建武2年)奥州で独自に力を付け始めた北畠氏に対抗する為に将軍・足利尊氏が奥州に設置したのが「奥州総大将」である。

 1345年(興国6年/貞和元年)奥州総大将が廃止され、「奥州管領」が設置される。
 1392年(元中9年/明徳3年)奥州管領が廃止される。
 1400年(応永7年)「奥州探題」が設置される。

 この役職は世襲する事が多いが、そもそも役を解任された後にその子孫が役を自称する事も多く見受けられる。
奥州総大将〜奥州管領までを総称して奥州探題と表現する場合があるので見極めが難しいが、 奥州探題は必ずしも一家のみとは限らないのである。

両家の因縁

 畠山家と伊達家の因縁は奥州探題から始まっていた。それは、何が何でも討ち取ろうと言うような殺戮的なものではなく、 どちらかと言えばライバル的な関係であった。
 かつては奥州四管領の一人として奥州の地を取り締まって来た畠山家にとって、伊達家は新参者である。
1514年(大永11年)伊達稙宗が陸奥国守護職に任命され、伊達氏当主の奥州探題世襲が始まり、畠山義継・伊達輝宗の時代までは 一定の距離を保っていた両家だったが、政宗が家督を継ぐとその勢力図は崩れて行くのである。
 米沢を拠点にしていた伊達氏は周囲の大名を取り込み、奥州一の勢力を持つようになる。
やがて畠山氏の二本松にも攻め入り、大名舘を攻め落とし奪い取って行った。 中には伊達氏に通じる二本松の大名などもおり、畠山氏の立場はますます危ういものとなるのである。
 そこで昔の馴染みとばかりに、政宗の父・輝宗に降伏をするので息子の暴挙を止めてくれないかと交渉に訪れる。 ところが輝宗は、自分は家督を退いた身、全て政宗に任せてあると言い義継の申し入れを聞かなかった。
仕方なく、義継は輝宗を人質に二本松城に連れ去ろうとするのだが、知らせを聞いた政宗率いる伊達軍に追われ、 遂には阿武隈河川敷まで来た所で追付かれてしまう。
 群の中に政宗の姿を見付けた輝宗は「我が身もろとも義継を討て!」と叫んだ。政宗は父の言葉を聞き、声を上げて泣いたと言う。 しかし、河を越えられては討伐も容易ならぬと呟き、父を捕らえている義継軍に向かって攻撃の采を揮うのである。
政宗父子の絆、そして将たる肝は義継の想定を越えていた。伊達軍の思いも寄らぬ攻撃に、義継の家臣達は馬を降り、 主君を守る様に義継の馬を取り囲んだ。もはやこれまでと察した義継も馬を降り、手にしていた脇差しで輝宗の命を絶ち、 輝宗の屍に腰掛けると、自らの腹を十字に切り裂いた。
 畠山家・伊達家とも大勢の戦死者を出し、奥州の名将二人が同時に果てた粟の須の事変は、戦国史上まれに見る大惨事となった。

 伊達家の奥州探題は稙宗から始まり、晴宗、輝宗、政宗と続いていく訳だが、政宗の時代にはすでに豊臣政権が始まっており 豊臣氏に侍従を誓った政宗は奥州探題の称号を返上するのである。 これをもって「奥州探題」と言う役職は、永遠に終わりを告げるのである。