二本松少年隊に関わる人々

小沢幾弥 17歳

 父が江戸定府であったため江戸で生まれ、江戸で育った幾弥は、江戸っ子らしく気短で気転のきく少年だった。
 16歳の時、父が国詰めになったため一緒に帰藩する。 しかし、二本松の空気に馴染めず、ともすれば二本松の子供達に対して『浅黄裏』『田舎者』という態度を取る事もあった。
 帰藩の際、父に買って貰ったという江戸土産の最新式洋銃も幾弥の自慢だった。当然、幾弥のそんな生意気な態度を許せない者達もいた。 少年達の間では『闇討』と言われる仲間同志の制裁があり、幾弥はその標的となった。
 ある日、仲間の少年達によって小川に投げ込まれてしまった。しかしその日以来、仲間達とも徐々に親しめる様になり、 二本松っ子らしい少年に変わっていったと言う。

 幾弥は江戸で蘭国式鼓法を学び、帰藩直前に鼓法の免許を取得している。そのため帰藩してからは鼓手の少年達の指導にあたった。
砲術は武衛流砲術師範・朝河八太夫の門下に入り、開戦時には朝河隊に所属し、師と共に愛宕山に出陣した。愛宕山からは供中口が一望でき、供中口の開戦と共に、 砲撃を始めた。
 供中口が破れると、退いた兵を追って、敵兵が愛宕山に向かって来る。敵兵に向かって、銃弾を浴びせる。 幾弥は弾が敵に命中する度、顔中をほころばせ両の手を挙げ喜んだと言う。
 しかし敵の攻撃は激しく、八太夫はもはやこれまでかと、兵士達に軍資金の全てを渡し、皆で平等に分け、それを持って好きな所に行けと命じる。

戦死の地碑(商工会議所前)
二枚の写真を合成したため、変な形ですみません

 その直後、敵砲の至近弾が破裂し八太夫は瀕死の重傷、幾弥も負傷する。八太夫の命令で大砲の目釘を抜き大砲を使えない様にした幾弥は、 重傷の八太夫を背負い愛宕山の陣地を後にする。
 その日の夕刻、落城後、幾弥は久保丁坂中腹の屋敷の庭で、薩摩藩の隊長・伊藤仙太夫に発見される。 幾弥は瀕死の状態で意識も朦朧としていたらしく、 伊藤が声をかけたところきれいな江戸弁で「敵か、味方か」と聞いてきた。もう敵味方の区別もつかなくなっていた。 哀れに思った伊藤が「味方だ。遺言はないか?」と訊ねると、手振りで介錯を求めるので『武士の情け』と、この助かる見込みの無い少年を介錯した。
 幾弥の両手の指先は、ほとんどの爪が剥がれ、残った爪には土が詰まっていた。 後日、坂下門(久保丁坂入り口)の掘付近の土中浅くから八太夫の屍が発見された。幾弥の両の手が血と泥にまみれていた事から、自らも負傷していながら、 重傷を負った尊敬する師を背負い、無念にも息絶えた八太夫をその場に埋めたのだろうと言われている。八太夫の発見された場所の土は、血に固まっていたと言う。
 まだ17歳の、しかも傷付いた身体で、大人を背負い、町中にあふれかえる敵の目をかいくぐり、最期の地に辿り着くのは容易な事では無かったろう。
 幾弥の墓所からは二本松の街が一望できる。『二本松っ子らしからぬ…』と言われた幾弥が、現在、街を見守るかのような場所に眠っているのが何となく切ない。 最期は『二本松っ子』として旅立って行けたのだろうか。

     没 1868年7月29日  享年 17歳
         墓所 二本松市法輪寺

幾弥の墓所から見える二本松市内の風景