二本松少年隊に関わる人々

木村銃太郎 22歳


戦死の地碑(大壇口)
 砲術師範・木村貫治の長男。18歳の頃、藩命を受け上府、江戸で約4年間西洋流砲術を学んだ。慶応3年暮れ〜4年春の間に帰藩。 父・貫治の砲術道場で、藩士子弟の指導に当たる事になる。
 この頃になると、国事の情勢により、藩士は全て砲術を学ぶようにとの、藩からの達しが出る。 この事から、銃太郎の門下に入ったのは、まだ砲術道場に入門していなかった幼い少年達であった事が分かる。
 風貌については「容貌魁偉」「眉目秀麗」「堂々とした美丈夫」この様に言い伝えられている。身体が大きく逞しい青年であった事がうかがえる。 しかし、その外見から想像される人物とは違い、厳しい中にも優しさがあり、笑うと出るえくぼも特徴だったらしい。 背丈は五尺七〜八寸と、当時では大柄である。
 銃太郎の指導は、徹底して個別に基本を教え、身体の小さな少年達にも相応しい射撃姿勢を、少年達と一緒になって考えると言うものだった。 故に、少年達からは絶対的な信頼を受け「若先生」「小先生」と呼ばれ親しまれていた。 中には「若先生と一緒なら死んでもいい」と話す少年も居たそうだ。

 銃太郎隊は大壇口に出陣。出陣の際には「隊長」と呼ばれていたが、実際は隊長と言う役名は無く、代わりに「幼年兵世話係」と言う役所があったらしい。
 出陣の日、銃太郎が引率した少年兵は23人。しかし、開戦直前の点呼の際には25人だったと言う。他の陣地に出陣した者が、銃太郎を慕って来たのか、 それとも自分の陣地が破れたため銃太郎隊に合流したのか、はっきりした理由が判らない内に開戦。正面から向かって来た敵は薩摩軍。
 銃太郎隊の戦い振りは実に見事で、一時はまったく敵隊の前進を阻み、遂には敵の作戦を変えさせるまでに至った。 敵兵は後に、戊辰戦争中一番の激戦であったろうと語っている。しかし、前方から向かって来た敵が側面に回り込み攻撃を激化して来た所、次々と犠牲者が。
 もはやこれまでと退却を決意する銃太郎の左の二の腕を、敵の銃弾が襲った。この時銃太郎は近くにいた少年達に、弾傷の手当ての仕方を教えたと言う。
 退却の合図の太鼓を鳴らし、皆を集めた所で更に第二弾が銃太郎を襲う。敵の銃弾は銃太郎の腰左側を貫通、腰は砕かれた。 この傷では到底城に戻れぬと、副隊長・二階堂衛守に「我が首を斬れ」と命じる。衛守はそれを拒むが、戦況が戦況なだけにやむを得ず、 銃太郎の介錯をしたのである。

     没 1868年7月29日  享年 22歳
         墓所 二本松市正慶寺