二本松少年隊に関わる人々

二階堂衛守 33歳

 『二階堂家は鎌倉幕府重臣藤原行政が鎌倉二階堂に居を構え氏を称した事より始まる。九代行信尾張国大谷に本拠を構え大谷と改姓した。 二十代元秀宗徳公に仕え攻城野戦の功少なからず関ヶ原後主家再興の為肝胆をくだいて忠勤し柱石の臣と言われた。 元秀五男重門は大城代。重門二男信之は慈明公に最も信頼され家老職に登り、藩政を司った。 以後代々家老職を世襲し二十八代信義二男少年隊副隊長信近に至り二階堂姓に復する。以後現在に至る。』
 二階堂家の墓石側面にはこの様に書かれている。大谷鳴海の弟でありながら二階堂姓を名乗っていた理由は判らないが、二階堂姓の由来は、上にある通りである。
 戊辰時、衛守は二本松に居を構えておらず、郡山の方に住んでいたらしい。
24歳の頃、主君の出府のお供として篤次郎の父、岡山持と共に仕えた事も。この時、半年程の間、江戸で過ごしたらしい。
 まだまだ資料不足だが、今後も調べてみたい人物。

戦死の地碑(右)
大隣寺入り口、左側


 背丈は五尺一〜二寸と言われている。現在、少年隊副隊長として知られているが、実際にはそう言った役所は無く、幼年兵世話係と言うのがそれらしい。
 大壇口では、負傷し一緒に城へ戻る事は出来ないと言う銃太郎の介錯をした。恐怖か、それとも悲しみか、衛守の手元は定まらず、 三太刀目でようやく首を落とす事が出来たと言う。
 急ぎその場に銃太郎の屍を埋め、銃太郎の首級を持って退却する。衛守率いる残った子供達は、大隣寺まで来た所で敵に銃撃される。衛守は即死であったと言う。

   没 1868年7月29日  享年33歳 
       墓所 二本松市大隣寺