地名「有楽町」の由来
織田有楽斎との関係]
(The origin of place name 'Yurakucho',
'Urakumachi' etc.)

-- 2015.12.02 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2016.12.05 改訂

 ■はじめに - 桑名の「有楽町」が切っ掛け

 「珍にして奇なる」と感じた光景を羅列的に掲載して行くページで、「桑名にも「有楽町」が在る」(※1)ことを写真付き(右下の写真)で載せました。▼下▼が桑名の「有楽町」を初めて載せたページです。
  日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)

 住所は三重県桑名市有楽町で、上記の「日本、珍にして奇なる光景」には次の様に記して居ます(その部分の▼コピー▼)。

    ◆桑名・その2 - 桑名にも「有楽町」が在る!

 <07.11.17:三重県桑名市有楽町>翌日も私は桑名を訪ねました。そしたら交差点で「有楽町」と書いてる標識を見付けて仕舞いました。読みも「Yurakucho」で、東京の有楽町と同じです。帰阪して住所を調べると「三重県桑名市有楽町」です。東京の有楽町は織田有楽斎(←信長の弟の一人、※1-1)に因むと言う名称ですが、この名称由来を知ってる人は少数で一般にはフランク永井が歌った「有楽町で逢いましょう」(1957年)で知られて居ます。
 桑名の有楽町は如何なる由来が有るのでしょうか?、『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠れば、一番有名な「東京都千代田区有楽町」の他に、現在▼下▼の自治体に

  秋田県秋田市有楽町
  栃木県足利市有楽町
  埼玉県所沢市有楽町
  岐阜県高山市有楽町
  福井県福井市有楽町
  愛知県豊橋市有楽町
  愛知県半田市有楽町
  三重県桑名市有楽町  ← 私が見付けた桑名の有楽町
  山口県周南市有楽町

「有楽町」が在るそうです(東京を除いて9自治体)、いやはや!

 という事で、当ページでは上記の引用文を受けて各地の「有楽町」に迫ってみたいと思います。それで先ず上記の有楽町の「読み」ですが、「ゆうらくちょう」「うらくまち」の他にも有る事が判りました。従って「読み」についても注意して見て下さい。
 そこで、こういう話題には興味を示すであろう私の弟子(←これも前掲ファイルに載って居ます。真っ赤なフェラーリに乗って居ましたが今も乗って居るかどうかは不明です。)に、この話題を振って見ました。すると彼は案の定、直ぐに乗って来ました。しめしめ、これで私の手間が省けるというものです。しかし彼はこれを知ったなら調査費を請求して来るので、この事はシーッ!、内緒です!!

 ■東京の「有楽町(ゆうらくちょう)」 - 有楽斎説の真偽は?

 先ずはフランク永井が歌った「有楽町で逢いましょう」(1957年)で有名な東京の「有楽町(ゆうらくちょう)」から検討します。広辞苑に出て居る「名称は織田信長の弟、有楽斎(うらくさい)の屋敷が在った事に因む」という有楽斎説が、必ずと言って良い程引用されます(←私も前掲ファイルでは取り敢えず引用しました)が、有楽斎は江戸に住んだ事が在るの?
 それは兎も角、明治5(1872)年有楽町は誕生しました。
 私の弟子などインターネットで検索し「有楽斎説は100%ガセネタ(※2)と決め込んで居ます。彼はネットに載っている事を直ぐ信用して仕舞うのですが、ネットの記事は「何処何処に何何と書いて在る」式に増幅して仕舞いますが、他人の記事を引用する場合には「基の記事は何処から採ったのか」を慎重に検討しないと為りません。ネットの記事は基本的に匿名で根拠の無い無責任な記事が余りにも多いので、その採用には細心の注意が必要です。
 私は『江戸名所図会』(※3)を繙(ひもと)いてみました。すると「織田有楽斎第宅の地」という章に

 「元数奇屋町の地なりといふ。慶長の頃、この地を織田有楽斎の賜はりしが、この後は空地となりて、三、四丁がほど、芝生となり、春は摘み草、夏は池水に涼みなんどして、その頃は林泉の形も残り、ことさら桜楓(おうふう)等の二樹多く、春秋ともに遊望の地にて、寛永の頃までは折にふれて、大樹、この地に御遊猟などあらせられしとなり(有楽斎、名は長益源五郎と称す。乃其軒(ないきけん)と号す。法名融覚(ゆうかく)。信長公の弟にして、茶道を利休居士に受けて一家の風あり。元和七年に卒す。この人茶事に長ず、ゆゑに、宅地にいくつともなく、数奇屋を建て置かれし旧跡なればとて、後世、土人、数奇屋の唱へをうしなはずして、町の名によべりとなり)。」

と出て来ます(△1のp212~213)。林泉(※4)とは隠遁の場所で、数寄屋(※4-1)とは茶室のことです。
 『江戸名所図会』が刊行されたのは1834~36(天保5~7)年で、月岑の祖父の斎藤幸雄が著述し、それを父の幸孝が補筆し、博覧強記(※5)(←広辞苑も博覧強記と記して居る)の斎藤月岑(※3-1)が校刊したのです。因みに、月岑が刊行したという事は、月岑は全てに目を通している筈なので不用意な文は直されている筈です。月岑とは、そういう”博覧強記”な人なのです。
 従ってこの文を祖父が書いているとすれば、書かれたのは1800年頃かも知れません。つまり、1800年頃から有楽斎説は存在してた訳で、弟子が言う様に明治期以降の説を持ち出してガセネタ説を展開しても意味が無い(nonsense)のです。少なくとも1800年頃に遡って有楽斎説を覆す必要が有るのです...、と成ると覆すのは難しいですね。より具体的に言うと、江戸幕府開設の1603年から家康死去の1616年家康と有楽斎の事実関係が問題と成ります(←何しろ『江戸名所図会』の刊行から230年も前の話ですから)。この間に「織田有楽斎の賜はりし」という事実が有ったのか無かったのか?
 一方、<嘗ての有楽町付近>の江戸城外濠には数寄屋橋(※4-2)が1629(寛永6)年 -<嘗ての有楽町付近>は寛永の頃(1624~1644年)迄は閑静で自然の風景が美しい場所だったと『江戸名所図会』の記述に在ります- に架けられ、この橋は1958(昭和33)年迄は存在した(←高速道路建設の為に橋は取り壊されました)ので御存知の方も未だ多い筈です。数寄屋橋という地名からも<嘗ての有楽町付近>には侘びた茶室が建っていた事が窺えます。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 数寄屋橋という名称は1952年から始まったNHKラジオドラマ『君の名は』、或いは1953年から封切られた同名の映画を思い出す人が多いと思います。東京大空襲の中、ふとした事から知り合った男女が数寄屋橋で再会を誓いますが二人は行き違い中々合えないという話です。原作は菊田一夫です。菊田一夫作詞、古関裕而作曲の主題歌『君の名は』もヒットしました。数寄屋橋は1958年に高度経済成長を成し遂げる為に取り壊され代わりに『君の名は』の記念碑が在ります。

 という事で、弟子の様にネットで煽られる「軽薄な輩」とは一線を画し、私は『江戸名所図会』の有楽斎説を採用せざるを得ません。そして「有楽町が東京に残った訳」で述べる様に推測(→後出)して居ます。

    ◆大阪にも嘗て有楽町(うらくまち)が在った!
      - 織田有楽斎という人物

 有楽町(うらくまち)1973(昭和48)年の町名変更迄、大阪にも在りました。今の西成区の天下茶屋3丁目辺りと岸里東1丁目辺りです。有楽町の謂れは織田有楽斎が昔住んで居たとか、これは十分説得力が有りますね。それについて説明しましょう。合わせて織田有楽斎はどういう人物だったのか、についても。

    ++++ ”逃げの有楽”の有楽斎 ++++
 織田有楽斎長益が大坂天下茶屋界隈の有楽町(うらくまち)に住んでいたという話が何故説得力が有るのか?、と言うと有楽斎は利休十哲の一人ですが、寧ろ利休の師・武野紹鴎(※6)に心酔して居り、その紹鴎の庵が天下茶屋に在ったからです。▼下を参照▼して下さい。
  阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)

 ですから紹鴎の侘びた風情に肖り有楽斎が天下茶屋界隈で庵を結ぶ事は十分有り得る話なのです、或いは住んで居たのかも。「天下茶屋」の名称由来も参考にして下さい。因みに利休は人には侘茶を進め乍ら自分は結構権力志向が強く、調子に乗って秀吉に近付き過ぎ切腹させられた訳で、ちょっと二枚舌的で私も好きでは有りませんね。恐らく有楽斎も同様に感じて居たと思います。
 ここで皆さんに一言、侘茶は武野紹鴎に始まって居る(△2のp113~114)のですゾ(←多くの人は侘茶を始めたのは利休だと思い込んでる人が多い)。そして京都建仁寺正伝院に有楽斎が建てた茶室如庵は国宝に指定されて居ます(←現在は愛知県犬山市の有楽苑内に移築)。この如庵(じょあん)という名は彼の洗礼名のジョアンの洒落です!

 右が有楽斎の肖像画です(『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』より)。武の織田家に於いて風流の有楽斎は特異な存在で、武が支配する戦国の世では”逃げの有楽”と陰口を叩かれ専ら合戦の調停役を引き受けました。それも仲介してる双方から相手方に通じて居るのではと疑われたりして。しかし兄の信長(←信長は父・信秀の次男、長益は信長と13歳離れた十一男)/秀吉/家康の3人の天下人に仕え、三者三様(=鬼/猿/狸)の個性有る人使いを身近に見て来て、しかも彼等の間を上手く泳ぎ切り -兄の鬼が本能寺の変で死に長益は寧ろ救われ、猿/狸とは「即かず離れず」遣り過ごした- 、尚且つ有楽流(※1-2)(←今も存続)を興し、キリシタン禁制の時代に洗礼名を持ち、2人の息子(長政・尚長)と自分とで財産を三等分にして相続した事は中々強(したた)かで見事と申せましょう。

 特に大坂冬の陣(※7)の前迄は、大坂方(豊臣)と徳川との間を取り持ち大坂天満川崎の別邸で茶会を開き両軍の融和を図るも、大坂方の実権を握っていた淀君(※7-1) -有楽斎は淀君の叔父- を軟化させるには至らず、大坂城に見切りを付け城を出て行きました。その後、夏の陣(※7-2)で淀君秀頼は大坂城で自刃し、有楽斎は京都に隠棲しました。家康没後の1617(元和3)年には有楽斎の別邸の跡地に東照宮(←家康を祀る社)を勧請し、これが現在の川崎東照宮です。
 尚、有楽斎長益は初め謙虚に「無楽斎」と称したのを猿が「無楽」より「有楽」の方が良いと言ったという話が伝わって居ます、まぁ猿なら有り得ますね。戦国時代を生き延びた有楽斎ですが、江戸時代はこれから約260年の太平の時代を迎えました。
    ---------------------


 以上が有楽斎に纏わる話です。

    ◆有楽町が東京に残った訳

 それで東京の話の戻り、問題の1603~1616年との関係ですが、私は有楽斎が猿家狸家の間を取り持った褒美 -猿家は大坂夏の陣(※7-2)で滅亡- として、今の東京有楽町付近(←狸の時代には「有楽町」という地名は無かった!)の一画を狸より賜る話が出たのではないか、と思います。そして人生の最後に江戸に来て風流三昧に過ごしたらと狸に誘われますが、”逃げの有楽”はこの申し出を丁重に断ります。人生の峠を越して今更権力なんて真っ平、有楽斎は権力者が居ない上方で羽根を伸ばして余生を過ごそうと思ったに違い有りませ今ん。ですから江戸に有楽斎の屋敷は無かったのですが「屋敷を賜った」という話だけが好事家←江戸時代は好きモンが多かった)に伝えられ江戸に有楽の名だけが残った、と私は推測して居ます。そして好事家に伝わった話が1872年の有楽町誕生の際に甦ったのです。

                (-_@)

 ■地方都市の有楽町

 東京、大阪以外の地方都市の有楽町(読みは色々)について私の弟子に調べて貰ったら、次の如くです。

    <地方都市の有楽町(読みは色々)>

  ①.東京の真似系

   秋田県秋田市  有楽町(ゆうらくちょう):実在の地名は南通亀の街だが
                         「秋田の有楽町」と呼ばれてた
   栃木県足利市  有楽町(ゆうらくちょう):永楽町も在る
   愛知県半田市  有楽町(ゆうらくちょう):銀座も在る
   山口県周南市  有楽町(ゆうらくちょう):銀座も在る

  ②.目出度い系

   青森県つがる市 有楽町(うらくまち)  :近くに末広、曙
   埼玉県所沢市  有楽町(ゆうらくちょう):目出度いから付けたと
                         市のHP(ホームページ)に有り
   岐阜県高山市  有楽町(うらまち)   :近くに末広、朝日
   三重県桑名市  有楽町(ゆうらくちょう):駅前で隣が寿町

  ③.遊郭系

   愛知県豊橋市  有楽町(ゆうらくちょう):元遊郭
   福井県福井市  有楽町(ゆうらくちょう):元遊郭の横

 そこで各地方都市の有楽町について解った事柄を列挙して行きましょう。

 (1)東京の真似系

  (1)-1.秋田県秋田市の南通亀の町:有楽町(ゆうらくちょう)は通称

 要するに、秋田市では有楽町は正式の地名では無く、正式な町名は南通亀の町です。では何故「秋田の有楽町と呼ばれるのか?、その訳を記しましょう。
 ネットで検索すると、確かに嘗ては「秋田の有楽町」と呼ばれたと出て来ます。映画館が流行った頃は賑わった時期も有った様です。私は「二〇世紀ひみつ基地」という面白いサイトを見付けました。これに依り1960年頃(即ち映画館が流行ってた時期)の有楽町の様子が可なり判りますので、以下にこのサイトを掻い摘んで紹介します。
 それに拠ると、村山多七郎という映画で財をなした”秋田の映画王”有楽会館という名のビルを1959年に建て、1階がトルコ風呂、2階が喫茶店「エデン」、3階が民謡酒場「有楽」という娯楽施設を作ったのが通称:有楽町と呼ばれる様に成ったのです。但し、トルコ風呂は今日の風俗産業の「ソープランド」では無く「本当にトルコ風の風呂」で至って健全でした。又、民謡酒場はカラオケが無い時代ですから舞台を揃え楽器と伴奏者を揃え、NHKの「のど自慢」に出た人をコーチに迎えたそうです。
 1960年と言えば「有楽町で逢いましょう」が出たのが1957年で、1964年の東京オリンピックの4年前で高度経済成長の最中でした。しかし高度経済成長も終わり、やがて全国的に映画館は斜陽産業に成り、今は当時を知る老人が「映画館が流行った頃」は良かったと懐かしんで居るのです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 村山多七郎氏は同サイトの年譜に拠ると、明治44(1911)年横浜生まれ。京都大学に行きますが滝川事件(※8)に連座して中退。以後映画館を経営し乍ら20代で秋田市議に当選、1947年には日本社会党から秋田市長選に出馬するも落選。これで政治家の道を諦め上述の如く1959年に有楽会館を設立し映画鑑賞サークルを立ち上げ交流します。1995年に秋田県文化功労章。1999年に逝去(享年88歳)。

  (1)-2.愛知県半田市の有楽町(ゆうらくちょう)

 愛知県半田市は注意が必要です、何となれば織田有楽斎は天正2(1574)年に尾張国知多郡を信長より与えられて居るからです。もう少し詳しく言うと、有楽斎長益は知多郡大野庄1万3千石を与えられ、最初既に在る大野城(今の常滑市金山)に入りましたが水利が悪い為にそれより北方の大草川畔の大草城(今の知多市大草)を改修して居ます(△3のp43~44)。まぁ信長からすれば「後方の守りを固めよ」という事ですが半田市とは直線距離で10km位です。しかし有楽町の町名由来は不明です。
 名鉄河和線に青山駅(半田市青山町1丁目)が在り駅の西側が青山町、東側が有楽町です。どうやらこれも東京の真似臭いですね、真似系は臭し!!

  (1)-3.東京の真似系のその他

 栃木県足利市の有楽町(ゆうらくちょう)は特に無し
 山口県周南市の有楽町(ゆうらくちょう)は特に無し。但し、山口県周南市は徳山市・新南陽市などが平成の大合併(住所は肥大化)で合併した市です。そしてネットで検索したら旧徳山市は東京のパクリの地名が矢鱈滅多ら多いと在り、有楽町/銀座/原宿/新宿/青山、更には代々木公園も在るとの事(←因みに「××銀座」は日本全国に在る)。理由は戦争で焼け野原に成ったので東京の様に栄えて欲しいと考えたらしいです、こんなの最低やね!、ああ臭!!
 序でに言うと、徳山という名は通って居ましたが周南市なんて誰も知りません、旧徳山市の地元政治家は何考えて居るのでしょうか???

 (2)目出度い系

  (2)-1.埼玉県所沢市の有楽町(ゆうらくちょう)

 埼玉県所沢市の有楽町(ゆうらくちょう)については『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に有楽町(所沢市)として掲載されてます。それに拠れば、江戸時代は当地は浦町(うらまち)と呼ばれて居ましたが、大正元(1912)年11月17日に大正天皇が所沢飛行場へ行幸したのを記念して、近隣の御幸町/寿町などと一緒に縁起の良い名前(=有楽町)に変更したと在ります。

  (2)-2.目出度い系のその他

 青森県つがる市の有楽町(うらくまち)は旧:西津軽郡木造町で、最近町名変更が有りました。特に情報無し
 岐阜県高山市の有楽町(うらまち)「うらくまち」から「く」が抜け落ちたん?
 三重県桑名市の有楽町(ゆうらくちょう)は -そもそも全国の有楽町を調べる事に成った話の発端は桑名市の有楽町でした- 有楽町というバス停が在ります。

 (3)遊郭系

 愛知県豊橋市は有楽町(ゆうらくちょう)は、今も細々と営業して居る現役の遊郭です。ここでは玄関の引き戸を2cm位開けて置くのだ、と70歳位の”遣り手婆さん”が言って居たそうです。
 福井県福井市の有楽町(ゆうらくちょう)は、やはり少数が細々と営業して居り、こちらも現役の遊郭です。

 遊郭地帯は何と無く”それっぽい”佇まいが他の地区とは違い自然と区別出来ますが、ここ豊橋市と福井市もじめじめして隠微な雰囲気が出て居ます。この点が同じく風俗産業のソープランドとは大きく異なる点で、つまり遊郭系は日本調なのです。余り好い気に成って写真なんか撮ってると突然「組事務所」の表札が出て来る事が有ります -私は大阪の飛田で経験しました- ので、御用心を!

              ◇◆◇◆◇

 以上が地方都市の有楽町でしたが、ネットで検索しましたが「町名の由来」が載って居たのは埼玉県所沢市の有楽町のみでした。こんなのは各自治体が「町名の由来」を載せて居たら半日で終わる作業ですが、...(>v<)
 自治体のHP(ホームページ)は役に立った事は殆ど無いですね、...税金の無駄遣いです!!

 ■結び - ローカルな話題に価値を見出す心

 やはり東京(江戸)の有楽町(ゆうらくちょう)大阪(大坂)の有楽町(うらくまち)(←今は無い)有楽町論議の双璧ですね。私も殆どの時間をこの2つに費やしました。特に『江戸名所図会』に基づき成るべく精確に1800年頃の史実に出来るだけ迫りました。そして織田有楽斎が大坂の天下茶屋辺りに庵を結ぶ事は十分考えられる事だ、という事を明らかにしました。その点が通常の有楽町論議と大いに異なる点です。尚、繰り返しに成りますがネットの記事は基本的に匿名で根拠の無い無責任な記事が余りにも多いので、その採用には細心の注意が必要です。

 「地方都市の有楽町」の章で参照させて頂いた「二〇世紀ひみつ基地」のサイトに感謝します。秋田市の通称:有楽町(ゆうらくちょう)について当時の新聞記事やデータを載せて高度経済成長期の1959年有楽会館を作ったという話は大変面白かったですし、この様なローカルな話を詳しく調べて居たので大変役に立ちました。結局この有楽会館が有楽町と通称される基に成ったのですから。それには1957年に発売された「有楽町で逢いましょう」も一役買って居ます。今回は私の弟子の分類に従って居ますが、この秋田市の通称:有楽町(ゆうらくちょう)は真似系では無く目出度い系の方が良い様に思えました。
 そして埼玉県所沢市の有楽町(ゆうらくちょう)は目出度い系が良く解りました。それに引き換え山口県周南市の有楽町(ゆうらくちょう)は再び言いますが、最低!!

 今回の「日本全国の有楽町の由来」を調べる企画文化のローカリズム(=文化の固有性)の価値を改めて再確認出来た良い企画だったと自画自賛して居ます。
 皆さん、どうも有難う御座居ました!!

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:有楽町(ゆうらくちょう)は、東京都千代田区の一地区が一番有名。銀座に接する繁華街。名称は織田信長の弟、有楽斎(うらくさい)の屋敷が在った事に因むと言う。有楽町という町名は他にも在る
※1-1:織田有楽斎(おだうらくさい)は、織田信長の弟(1547~1621)。名は長益。大坂冬の陣に豊臣方に与(くみ)したが、後に堺・京都などに隠棲、茶人利休十哲の一人)として知られ、有楽流を興した。
※1-2:有楽流(うらくりゅう)は、茶道の一派。千利休から分派し、織田有楽斎長益を始祖とすし、今日迄続く。

※2:「がせ」とは、[1].偽物。
 [2].嘘。出鱈目(でたらめ)。「―ねた(種)」。

※3:江戸名所図会(えどめいしょずえ)は、地誌。斎藤幸雄編、子の幸孝補修、長谷川雪旦画。7巻20冊。1829年(文政12)自序、1834~36年(天保5~7)孫の幸成(月岑)刊。北斗七星の位置に配当して江戸の神社・仏閣・名所・旧跡を7巻に分け、絵を加えて説明。
※3-1:斎藤月岑(さいとうげっしん)は、江戸末期の著述家(1804~1878)。名は幸成。江戸神田雉子町の草分け名主。和漢の学を修め、博覧強記で、「武江年表」「東都歳事記」「声曲類纂」など著述が多い。「江戸名所図会」は祖父幸雄が撰し、父幸孝が補修、月岑が校刊した。

※4:林泉(りんせん)とは、林や泉水などの在る庭園。しま。又、隠遁の場所。
※4-1:数寄屋/数奇屋(すきや)とは、[1].茶室。茶席・勝手・水屋などが一棟に備わった建物。囲(かこい)。
 [2].茶室風の建物。
 [3].障子に張る美濃紙の称。
※4-2:数寄屋橋(すきやばし)は、江戸城外濠の京橋数寄屋町への通路(東京都千代田区有楽町と中央区西銀座との間)に架した橋。1629(寛永6)年に架けられ、1929(昭和4)年石造りの二連アーチ橋と成り人気を博したが、1958(昭和33)年に外濠が高速道路建設の為に埋められ、橋は取り壊された。今は名称だけが存続。

※5:博覧強記(はくらんきょうき)とは、広く古今東西の書物を見て、物事を良く覚えていること。「―の人」。

※6:武野紹鴎(たけのじょうおう)は、室町後期の茶人(1502~1555)。泉州堺の納屋衆の一人。元は武田氏、後に武野氏。一閑居士・大黒庵と号。珠光の門人宗陳・宗悟に茶道を学び、村田珠光が始めた侘茶の骨格を作り、千利休に伝えた。

※7:大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)は、1614年冬(慶長19年11月)徳川家康が豊臣氏の拠る大坂城を攻めた戦い。関ヶ原の戦の後、家康は豊臣氏を滅ぼそうと謀り、「国家安康」方広寺鐘銘事件を口実として攻めたが、城が堅固で落ちず、翌月一旦和議を結んだ。
※7-1:淀君(よどぎみ)/淀殿(よどどの)は、豊臣秀吉の側室の俗称(1569?~1615.5.8)。幼名、茶々。浅井長政の長女。母は信長の妹お市の方。柴田勝家滅亡後、山城の淀城に住み、秀頼を生む。秀吉没後は、秀頼を擁して大坂城に在り、その落城の際、城中に自刃
 補足すると、秀頼は秀吉の子では無い、とする説が有力。
※7-2:大坂夏の陣(おおさかなつのじん)は、1615年夏(慶長20年5月)徳川家康が豊臣氏を滅ぼした戦い。徳川方が冬の陣の和議条約を守らず大坂城の内濠をも埋めたので、大坂方の将士は憤激の余り豊臣秀頼を擁して再び兵を挙げたが、家康/秀忠の大軍に破られて、秀頼/淀君以下自刃した。尚、この戦で大坂方の実権を握って居たのは淀君である。

※8:滝川事件(たきがわじけん)とは、1933年5月の、鳩山一郎文相に依る京大法学部滝川幸辰(ゆきとき)教授(1891~1962)の自由主義思想を理由とする免官処分と、それに抗議して学問の自由と大学の自治擁護を主張した同学部教授団と学生らによる抵抗運動。京大事件。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『新訂 江戸名所図会1』(斎藤幸雄・幸孝編著、斎藤月岑校刊、市古夏生・鈴木健一校訂、ちくま学芸文庫)。

△2:『カラーブックス 茶道入門』(井口海仙著、保育社)。

△3:『織田有楽斎』(堀和久作、講談社文庫)。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):桑名の「有楽町」を初めて載せたページ▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
『君の名は』の主題歌▼
古関裕而音楽の幅広さ(The variety of composition by Yuji Koseki)
武野紹鴎の庵が大阪の天下茶屋に在った▼
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
江戸の太平が破られる時▼
歴史の横漏れ(Spill sideways from history)
江戸時代は好事家(=好きモン)が多かった▼
河童考(About the Kappa, that is, water imp)
日本の高度経済成長期▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
「××銀座」は日本全国に在るが地方の銀座は侘しい物が多い▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
平成の大合併(住所は肥大化)とは▼
2006年・井川線あぷとラインの旅
(Ikawa Abt-line, Oi-river Railway, 2006)

文化のローカリズム(=文化の固有性)とは▼
世界遺産登録で本当に遺跡や文化が守られるのか?(World heritage)


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