−− 2004.11.27 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2004.12.16 改訂
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地下鉄谷町9丁目駅を上がると谷町筋と千日前通りが交差する谷町9丁目交差点です。今回はここを起点に谷町筋の西100〜150m位の裏通り(=「歴史の散歩道」)を通って、上町台地の西斜面沿いに
生玉 → 夕陽丘 → 逢坂付近 → 茶臼山
迄と、北から南に向かい漫ろ歩いてみます。途中天王寺七坂と言われる坂を上り降りし乍ら行きますので辿るコースはジグザグですので、迷わず付いて来て下さい。
天王寺七坂とは生玉から逢坂迄の間に上町台地の西斜面に展開する坂のことで、北から真言坂、源聖寺坂(げんしょうじざか)、口縄坂、愛染坂(あいぜんざか)、清水坂、天神坂、逢坂(おうさか)の7つの坂を指し、何れも坂下は松屋町筋です。
それではボチボチ行きますが、先ずは生国魂神社を参拝してから行きましょう。と言うのは行き成り真言坂に行くのは、初めての人には解り難いし説明もし辛いのです。かと言ってこの界隈の人に訊いても名前を知っている人は殆ど居ません、一部の”物好き”を除いては。逆にこの界隈の人であれば幼稚園児でも生国魂神社は知ってます。そして後述する様に生国魂神社から真言坂へは簡単に行けるので、神社で心を清めてから行くのが良いでしょう。
谷町9丁目交差点の南西が大阪市天王寺区生玉町で、最寄り駅は地下鉄谷町筋線及び千日前線の谷町九丁目駅です。
(1)生国魂神社
生玉町のラブホテル街の真ん中に生国魂神社(生國魂神社)(天王寺区生玉町13−9)が東向きに鎮座して居ます(右の写真、鳥居の奥の緑色の屋根の建物が拝殿)。鳥居には丁度、夏の厄除けの為「茅の輪」(※1)が飾られて居ました。
この神社は「大阪の歴史と共に在る神社」ですが、詳細は「生国魂神社と上方芸能」をご覧下さい。神社とその周囲の様子も掲載して居ます。
(2)真言坂
生国魂神社の赤門(北門)を出て境内の敷地に沿って西に下るのが生玉北門坂で、北門から真っ直ぐに北に下る石畳の道が天王寺七坂の一の坂である真言坂(左下の写真、北門から写したもの)です。
写真の右に映っている説明用立て札に拠ると、生国魂神社の神宮寺であった法案寺を始めとする生玉十坊が明治の廃仏毀釈迄は神社周辺に存在し、神社北のこの坂近辺にはその内の6坊(医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院)が在り全て真言宗であったことが名称の由来です。
写真には写って居ませんが、立て札の向かいのマンションの敷地の中に「右京道 天保十五年」の道標が立って居ます。今でこそ千日前通り迄の僅か60m位の短い坂道ですが、明治末期迄は高津神社参道に続き、そこから八軒家を経て京街道に通じて居ました。
(3)生国魂神社を後にして
こうして神社周辺を見て廻り再び最初の鳥居前に出て、市が整備した「歴史の散歩道」を南に進みます。「散歩道」には左下の写真の様な煉瓦製の石畳が敷き詰められて居ます。
この道は谷町筋の西150m位の所を生玉霊園迄は谷町筋と並行する裏道で、右上が遊歩道の風景です。背後の白い建物はラブホテルです。
(1)源聖寺坂
「散歩道」を右上の写真の白いラブホテルの手前迄進み右に曲がると源聖寺坂(左下の写真)に通じる道と交差します。この坂の名の由来は、坂下に源聖寺(右下の写真)が在る為です。
付近の齢延寺には幕末に泊園書院を興して活躍した儒者の藤沢東咳・南岳父子の墓が在り、南岳は通天閣の命名者です。
(2)生玉寺町の風景
源聖寺坂を越えると生玉寺町です。銀山寺には近松の『心中宵庚申』の主人公のお千代・半兵衛の比翼塚が在ります。
更に南に進むと生玉霊園(左の写真)です。往古は入江が迫っていた西向きの墓地からは難波方面の高層ビルが見えて居ます。最早海に沈む夕陽を見ることは出来ませんが、秋の彼岸頃の夕陽は中々綺麗です。
さて、生玉霊園の下の松屋町筋には浄土宗の護念山心光寺(右の写真)が在ります。ここは「三十三観音霊場」の26番目に当たる寺ですが、ご覧の様にタージ・マハル(※10)を思わせる様なインド・イスラム風の建物で、度肝を抜かれますが中々美しい建築です。
(3)青蓮寺と月江寺
生玉霊園を過ぎると「散歩道」は大阪女子学園短大・附属高等学校にぶつかり、左折して一旦谷町筋に出ますが、左折する直前に左手に青蓮寺が在り、ここに2代目・竹田出雲の墓が在ります。山号は高堅山、宗派は真言宗です。
青蓮寺の東隣に月江寺(げっこうじ、天王寺区生玉寺町)が在ります。この寺は元禄元(1688)年に東院尼が阿弥陀如来坐像を本尊として創建した浄土宗の尼寺です。その後第3世・俊恵尼に依って境内が整備され、『摂津名所図会』には藤の花見と土器(かわらけ)投げに興じる人々で賑わう境内の様子が描かれて居ます(△3のp132)。
ところで先程の生玉霊園から教会の尖塔が見えていて気になって居たので、少し戻り生玉霊園の東に裏道を入って行くと、その教会の前に出ました。右の写真がその教会の尖塔です。羊を導く人物像のステンドグラスの下が入口で「在日基督教大韓監理会 大阪燈台教会」と書いて在りました。
この教会は谷町筋から一筋西に引っ込んだ位置に在り、表通りのビルの陰に成って谷町筋からは見えません。
(1)太平寺と吉祥寺
谷町筋に出て車の通る通称「学園坂」(左の写真)を越えると、夕陽丘町に変わり間も無く地下鉄の四天王寺夕陽ヶ丘駅です。この写真の右側に白く見えるのが大阪女子学園短大・附属高等学校の敷地の崖です。
四天王寺夕陽ヶ丘駅に行く手前には右下の太平寺が在ります。ここは「十三参りの寺」(※11)です。
十三参りとは昔の元服を祝う行事で、今風に言えば成人式の御参りです。
さて、寄り道序でにここで谷町筋を東に渡り少し戻って、谷町筋に面する壁が左の写真の様にケッタイなギザギザ模様の吉祥寺に立ち寄ります。ここは山号を万松山という禅寺です。
何故ここに寄ったのかと言うと、ここの境内にはあの「忠臣蔵」の四十七義士の墓(※12)が在るからです。
(2)口縄坂と織田作之助文学碑
再び大平寺に戻りその直ぐ南で右折、即ち西に入って進むと階段状の口縄坂(下の写真)に出ます。「桜満開の大阪城」をデザインした大阪市のマンホール蓋が石畳の階段にアクセントを付けて、ここでは妙にしっくりと決まって居ます。天王寺七坂の中でこの坂の名前が最も有名ですが、それは織田作之助(※13)の小説の所為かも知れません。
口縄坂の下り口にはその織田作之助文学碑(左下の写真)が在ります。大阪で生まれ大阪で育ち大阪を書き大阪で没した最も大阪臭い作家と言える織田作の短編小説『木の都』(△4のp66)の最後の一節から次の文章が刻まれて居ます。
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。
私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終わり、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。
風は木の梢にはげしく突っ掛かっていた。
因みに、大阪の人は何でも縮めて言う癖が有りますが親しみ込めて織田作之助のことをおださく/オダサク/織田作と呼び、その事は本人も『世相』という小説に書いて居ます(△4のp156)。
この坂の名前の由来は、坂下から見た時に坂道の起伏が口縄、即ち蛇に似ているからだそうです。坂上から見た限りではどう見ても真っ直ぐなので、私は坂下に行って改めて見ましたが、右の写真の様にやはり真っ直ぐな道で口縄には見えませんでした。一説に拠ると大阪城築城の時、縄打ちを始めた地である為とも言われます。
ところで小説『木の都』の中に次の様な一節が在ります(△4のp55)。
口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といってしまえば、打(ぶ)ちこわしになるところを、くちなわ坂とよんだところに情調もおかし味もうかがわれ、この名のゆえに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、...
『木の都』は太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に雑誌「新潮」に発表されました。そして昭和9(1934)年迄坂上の丘に夕陽丘高等女学校が在って、織田作が若かりし頃密かにこの女学校の生徒に淡い思慕を寄せていたことが、口縄坂の情景と共に描かれて居ます。その頃の口縄坂はくねくねと曲がりくねって居たのでしょうか?!、何れにせよしっとりと落ち着いた雰囲気の坂道です。尚、織田作之助の墓は天王寺区城南寺町の楞巌寺に在ります。
この坂の下には浄土宗の一雲山善龍寺(右の写真)が在り、ここに記した口縄坂の謂れや織田作のことや芭蕉の句
口とぢて
蛇坂(くちなはざか)を
下りけり
などを紹介して居ます。
江戸時代はこの辺りは糸桜(枝垂桜)の名所だったそうで、善龍寺の境内の糸桜は季節に成ると右の様に見事に花を咲かせます(05年4月11日撮影)。手前の老いた猫[♀]はご愛嬌ですが、どうやらこの寺の”主(ぬし)”らしいので敬意を表しました。
『摂津名所図会』には生玉の龍専寺(浄土宗)の糸桜の枝に浪花の遊女が俳諧の発句
我風俗(わがふり)を
恨みつ風の
いと桜
を結び為す情景がが描かれて居ます(△3のp136〜7)。枝垂桜はエドヒガンの変種で彼岸の頃に咲くので四天王寺帰りの客でここが賑わいました。
この寺の門の前にはもう一つ、「海中出現地蔵尊」(左の写真)なる石柱が立っていて、境内には赤い幟が立った小さな「身代地蔵菩薩」(右の写真)が在ります。
口縄坂付近の浄春寺には、天文暦学者の麻田剛立、画家の田能村竹田、春陽軒には国学者の尾崎雅嘉、太平寺には医家の北山寿安ら、江戸時代に活躍した先人の墓が在ります。又、梅旧院には芭蕉の供養塔が在ります。
(3)藤原家隆と夕陽丘
口縄坂を南に「歴史の散歩道」を少し進むと
契りあれば 難波の里に やどりきて
波の入日を 拝みつるかな
という藤原家隆(※14)の歌碑が在ります。家隆は「従二位家隆」の名で『小倉百人一首』の98番歌にも採録されて居ます。その歌をここに載せて置きましょう。
風そよぐ 楢の小川の 夕暮は
御禊(みそぎ)ぞ夏の しるしなりける
夏の禊とは夏越の御禊(※1−1)のことで、生国魂神社の鳥居の「茅の輪」もそうでしたね。
(1)聖徳太子所縁の愛染堂勝鬘院は愛染
(2)愛染坂
左の写真が愛染坂で、名前の由来は坂上に愛染堂勝鬘院が在る為です。この写真の坂の右側は大江神社です。
愛染坂を越えて南に進むと伶人町です。
(1)清水坂
下の2枚の写真が清水坂です。名前の由来は清水寺の脇を通る為です。清水寺境内には大阪市内唯一の「玉出の滝」が在り、又嘗てこの辺り一体からは天王寺七名泉 −増井・逢坂・玉出・安居・土佐・金竜・亀井の泉− が涌き出る名泉所として知られ、「水売り」なる商売が成り立って居ました。寺名の「清水」もそんな謂れと関係有るのかも知れません。
(2)清水寺と「玉出の滝」
(1)天神坂
左が天神坂です。名前の由来は坂の中程の南に安居天神と通称される安居神社が在る為です。この坂を越えた南側は逢阪1丁目です。
(2)安居神社
当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。
道真が大宰府に配流される際に船待ちの為にこの地で暫く安居(あんご)(※20、※20−1)したと伝えられて居ます。
江戸・寛政8年(1796年)発刊の『摂津名所図会』に載っている道真が「ここに、暫時やすらひ給ふ故」から安居の名が起こった説や、かって四天王寺の僧侶が結夏90日の間、安居した「安居院(あんごいん)」(※20−2、※20−3)からきているといった説がある。
また、境内は真田幸村が大坂夏の陣で戦死した地と伝えられ、石碑が建てられている。
(1)逢坂
左が逢坂です。ご覧の様に車が頻繁に通る広いアスファルトの坂道で風情は全く有りません。写真で左前方の建物が一心寺で、その向こうに通天閣が頭を覗かせて居ます。この道は四天王寺に通じる参道で、私が写真を撮った地点から後ろへ(東へ)坂道を上がり切った所に四天王寺西門(下の写真)が在ります。
西門の大鳥居の間から四天王寺の五重塔が見えて居ます。
(2)一心寺
この逢坂を越えて向こう側(上の写真の左側)は逢阪2丁目です。それでは坂を越えて一心寺に行きます。
(3)掘越神社
何時の間にか茶臼山近く迄来て仕舞いました。天王寺七坂巡りはこれにて終了です。皆さん、お疲れ様でした!!
口縄坂をこよなく愛した織田作の『木の都』の最後の一節が織田作之助文学碑に刻まれて居ましたが、この小説の冒頭は
大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついている。
それは、生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、中寺町のお寺の境内の蝉の色を隠した松の老木であったり、源聖寺坂や口縄坂を緑の色で覆うていた木々であったり、−−私はけっして木のない都で育ったわけではなかった。大阪はすくなくとも私にとっては木のない都ではなかったのである。
という書き出しで始まります(△4のp54)。「巳さん」とは関西の人が使う言葉で蛇神の事です。
「木の都」という題は大阪が「水の都」と呼ばれ、東京と比較して樹木が少ないと指摘されて居ることへの、パロディー的意味が恐らく込められて居たと思います。この小説には口縄坂だけで無く上の一節の様に生玉公園に成る以前の蓮池の様子や当時の天王寺七坂界隈の人々の人情が柔和な語り口で描写されて居ます。
このページで漫(そぞ)ろ歩いて来た現在の天王寺七坂界隈は、織田作の時代から半世紀以上経過した今でも、「街中(まちなか)としては」という条件付き乍ら豊かな樹木を残して居ます。日曜・祝日には口縄坂や愛染坂でスケッチをする人をチラホラ見掛けますが、普段はこれらの坂を通る人は疎らで、小雨の日などは特に風情が有ります。近所にお住まいの方は是非一度天王寺七坂を漫ろ歩いてみて下さい。そしてもし気に入ったらここを散歩コースに加えて下さい。偶に外国へ行く見栄よりも常日頃から「地元の風情を楽しむゆとり」を持つことこそ、今の私たちには必要なのです。正に「旅は身近な所から」という訳です。
天王寺七坂界隈の夏は先ず6月30日〜7月2日頃に行われる愛染さんの「ゆかた祭」で始まり、7月11・12日の生国魂神社の夏祭、7月15・16日の大江神社の夏祭と進み、7月25日の天神祭で絶頂を迎えます。
【脚注】
※1:茅の輪(ちのわ)は、六月祓(みなづきのはらえ)に用いる、チガヤを紙で包み束ねて輪の形に作ったもの。これを潜って身を祓い清める。すがぬき。
六月祓(又は水無月祓)は夏越祓(なごしのはらえ)の別称。六月祓晦大祓(みなづきつごもりのおおはらえ)。季語は夏。
※1−1:夏越祓(なごしのはらえ)は毎年6月晦日に行われる大祓の神事。神社では参詣人に茅の輪を潜らせて祓い浄める。邪神を和(なご)める為に行うから名付けた。夏祓、夏越の御禊(なごしのみそぎ)、輪越祭。
※10:タージ・マハル(Taj Mahal)は、(「マハルの王冠」の意)インド北部のアグラに在るイスラム教の廟堂。ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃の為に1632年より建立。装飾美術の粋を集めた華麗な建物で、インド・イスラム式建築として有名。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11:十三参り(じゅうさんまいり)は、旧暦3月13日(今は4月13日)に、13歳の少年・少女が盛装して、福徳・知恵・音声を授かる為に、虚空蔵に参詣すること。当日境内で13品の菓子を買って虚空蔵に供えた後、持ち帰って家中の者に食べさせる。京都嵯峨の法輪寺が有名。知恵詣。季語は春。
※12:四十七士(しじゅうしちし)とは、元禄15年12月14日(1703年1月30日)夜、江戸本所松坂町の吉良義央(よしひさ)邸を襲って、主君浅野長矩の仇を報いた47人の武士。即ち、大石良雄・吉田忠左衛門・原惣右衛門・間瀬久太夫・小野寺十内・間喜兵衛・磯貝十郎左衛門・堀部弥兵衛・富森助右衛門・潮田又之丞・早水藤左衛門・赤埴源蔵・奥田孫太夫・矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門・片岡源五右衛門・近松勘六・大石主税・堀部安兵衛・中村勘助・菅谷半之丞・木村岡右衛門・千馬三郎兵衛・岡野金右衛門・貝賀弥左衛門・大高源吾・不破数右衛門・岡島八十右衛門・吉田沢右衛門・武林唯七・倉橋伝助・村松喜兵衛・杉野十平次・勝田新左衛門・前原伊助・小野寺幸右衛門・間新六・間重次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和介・横川勘平・神崎与五郎・三村次郎左衛門・寺坂吉右衛門。赤穂浪士、赤穂義士。
※13:織田作之助(おださくのすけ)は、小説家(1913〜1947)。大阪市生れ。大阪庶民の風俗を描いた「夫婦善哉(めおとぜんざい)」で認められ、戦後、私小説を否定して「可能性の文学」を唱道。「土曜夫人」「西鶴新論」など。
※14:藤原家隆(ふじわらのいえたか)は、(名は「かりゅう」とも)鎌倉初期の歌人(1158〜1237)。新古今集撰者の一人。俊成の門に出で、定家と並称。素直で清潔な歌風。家集「壬二集」。
※20:安居(あんご)とは、〔仏〕([梵]varsa、雨/雨期の意)僧が一定期間外出しないで、一室に籠もって修行すること。普通、陰暦4月16日に始まり7月15日に終る。雨安居(うあんご)/夏安居(げあんご)/夏行(げぎょう)/夏籠(げごもり)/夏断(げだち)などと言う。禅宗では冬にも安居がある。季語は夏。←→冬安居(とうあんご)。
※20−1:冬安居(とうあんご/ふゆあんご)とは、〔仏〕陰暦10月16日〜翌年の正月15日迄(臨済宗では2月15日迄)行う冬季の安居(あんご)。雪安居。←→夏安居(げあんご)。
※20−2:安居院(あんごいん)とは、「飛鳥寺(あすかでら)」参照。
※20−3:飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村に在った寺。現在は旧地に飛鳥大仏を本尊とする真言宗の安居院(あんごいん)が在る。596年、蘇我馬子が創建した日本最初の本格的寺院。法興寺とも言い、718年(養老2)平城京に移して元興寺と称して後は、本元興寺とも呼ばれた。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:生国魂神社社務所発行の由緒書「難波大社 生國魂神社略誌」。生国魂神社は03年頃から社殿や境内を整備して居て、由緒書も以前に比べ各段に進歩しました。
△2:『日本書紀(四)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△3:『上方風俗 大阪の名所図会を読む』(宗政五十緒編、東京堂出版)。
△4:『夫婦善哉』(織田作之助著、新潮文庫)。
△5:『南海本線歴史散歩』(中井一水著、鷹書房)。
●関連リンク
『小倉百人一首』の98番歌▼
@補完ページ(Complementary):生国魂神社の詳細▼
生国魂神社と上方芸能(Ikutama shrine and entertainments, Osaka)
松屋町界隈▼
人形の町−大阪松屋町(Town of dolls, Matsuyamachi, Osaka)
鴫野神社が元所在地近くの新鴫野橋▼
黄昏の淀川〜大阪城(Twilight scene from Yodo-river to Osaka castle)
私の人形浄瑠璃論▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
”人生の真実(まこと)”を見て育つ幼児施設リンク▼
浪速八百八橋(808 bridges of Naniwa, Osaka)
2004年・台湾”味試し”旅(Let's banquet and sing in Taiwan, 2004)
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旅は身近な所から(Usual and familiar travels)