[HOME]>[旅行先一覧] >[三峡トップへ]
[7]
朝食をとろうとホテル周辺を皆で3,40分歩き回ったが,ちょっと小奇麗なところがいいとか,ビールも飲みたそうで,そんな店朝っぱらからは開いていない,適当なところが見つからない。結局時間切れでホテルに戻ってバイキング方式の朝食。(一人99元)
ところで町を歩いている時,上手な日本語を話す青年が寄ってきて「切り絵をやっています云々」と言ってついてくる。魂胆は先刻ご承知だ!どこかへ連れて行って高いものを買わせるつもりだろう。体よく断ると,今度はNさんに話しかけている。
「あほだな〜このグループには,そんな輩にだまされるような”やわ”は,一人もいないよ!」
あきらめたのか何時の間にか消えていった。
今日は,黄ちゃんが仕事の関係で全日は付き合えないということで,水郷の古鎮と上海豫園を日本語ガイドつきで観光する。
9:55 周庄へ出発
10時前,ガイドの張麗香さんという大学で日本語を勉強しているお嬢さんがやって来た。なかなか愛嬌もあり,日本語も確かで楽しい1日が過ごせそうだ。
ホテル発9:55 高速道路で約1時間朱家格インターで一般道路へ,右手に隋の煬帝がつくった京江大運河,淀山湖をみて12時少し前に周庄に到着。上海から約70キロ,車で約1時間半のところに位置する,上海から見ればちょうど淀山湖の裏側になる。
周庄と周荘 どう違うの?
町に入るのにチケットが必要だ。
入り口が2年前と違ったところに新設されている,またまた観光地化が進んだようだ。日本で言うと,高山だとか日田だとか萩とか喜多方のような古い町並みを売り物にして観光客を集める水郷の町と思えば間違いない。ちなみに周庄は中国語,周荘とも書くがよみかたは”しゅうしょう”だそうだ。
周庄は900年の歴史を持ち,かつては京江大運河と東に延びる瀏河により海につながるという交通の要衝としての位置を活かし交易を行い食料・シルク・各種手工業品の集散地として発展した。
現在の水路は生活にも使われているためやや汚染されているが,濠と古い家並みと石橋とがこじんまりとまとまっており美しい街並みをなしている。
クリーク沿いのみやげもの屋やレストランが並ぶ同じような格好の狭い路地をあちこち曲がりながら歩くので何処をどう通ったのかさっぱり記憶していない。
豪商であった沈家と張家を見て,水路をめぐる船に乗ったことしかよく覚えていない。
先ずは沈家
江南の豪商沈家が住居として建てたもの。年代的には新しく清代の乾隆7年(西暦1742年)の完成だという。
水路に面した入り口を入ると,そこは客を接遇したり冠婚葬祭に使用する部屋。それより奥が居住空間である。
メインルームというかダイニングルームとして使われたのであろう松茂堂は龍・麒麟・鶴・鳳の彫刻を施された梁と柱が目を引く。
建物は奥に向かって細長く延びている。
居間,応接間,書斎,食堂,台所,寝室,使用人の部屋などなど部屋数は大小合わせて100を超えるそうだ。。
庭石と言うか叩きというのか,平たい瓦や石を縦に並べて埋め込み独特の縞模様で飾っているのが目に付く,北京の故宮の北門近くでも同じようなものを見たし,午後訪れた上海の豫園の庭にもあった。
|
|
沈家のメインルーム |
庭石の飾り模様 |
次は張さんの家
15世紀半ばに建てられ清代はじめに張氏が所有,正式には”玉燕堂”と呼ぶそうだ。
運河沿いの道に堂々とした姿を見せる邸宅は沈家と同じく奥に向かって細長い。
建物の様式は、当時の江南の特徴的な建築様式であった徽州・蘇州・紹興の様式を取り入れた独特のものであり,6つの中庭を持つ建物で構成され,約70の部屋を持つ。
中庭の池に外の運河から水路が引き込まれている,小舟が直接出入りできる仕組みだ。家の女性が利用するための水路だと言う。
明代の寺院や塔はいくつも残っているが,住居は非常に少なく考古学的かつ古建築の研究にとって大変貴重なものだという。
使用人が出入りに使ったという暗く細長いトンネルの様な通廊を通って外へ出る。
のんびり水郷めぐりの船に乗る
沈家の前から北へ向かい双橋・全功橋をくぐり・蜆江橋前でUターン,再び双橋をくぐってすぐに右折し太平橋・青龍橋をくぐり周庄博物館の前が終点。一艘60元8人乗り。
チップ(10元)を弾むと船頭さん(女性)が唄を歌ってくれる。わたしはあまり気が進まないのでわたし達の船はパス。他の船頭さんの唄を聞きながら,短時間ではあったがのんびりした水郷めぐりを楽しんだ♪
|
|
|
観光客を乗せて柳並木のクリークをのんびりいく小舟 |
双 橋 |
豚のもも肉を煮込んだ
万三蹄 周庄の名物だ |
双橋が周庄を世に出した話って知ってる?
クリークには全部で14の石橋がかっているそうだ。元・明・清の3代の間に造られたもの。
中でも双橋が有名である。
メインストリームである南北市河のほぼ中央に架かる世徳橋とこれと直角につながる永安橋とを合わせて双橋と呼ぶ。
明の万歴年間(1573〜1619年)に建設され,1765年・1843年・1957年にそれぞれ修築されている。
一方は石積みア―チ橋,他は,両持ち梁として石材を渡したもの。
二つの異なるタイプの橋が見事に調和している。
この橋を描いた絵が周庄を世界的に有名にしたという。そのくだりをガイドブック トラベルジャーナル社刊「上海と江南の水郷を訪ねる中国」から転記する。
1984年,中国を訪れたある石油会社会長のアメリカ人がケ小平に一枚の絵を贈った。
「故郷の思い出」と題されたその絵に描かれていたのは双橋だった。
作者は中国人画家の陳逸飛。作品はたまたまこの石油会社のギャラリーに展示されていた。
会長はこの絵を気に入り購入し,訪中のお土産としたのである。 中国ではこの絵は大変話
題となった。 切手の図柄にも使われた。
85年に周庄大橋が架けられ,それから観光客は一気に増えた。
アメリカ人の持ってきた一枚の絵によって,周庄は一躍,脚光を浴び始めたのである。
|
この橋は周庄一番の絵になる場所として人気があり,橋を描く人や撮影する人が多い。
2時,周庄賓館で遅い昼食。今日の気温は34℃だという,コップ一杯だけのビールだったが旨かった。
2時40分,周庄発
4時30分上海豫園着
豫園は典型的な江南様式の中国庭園,明代の嘉靖年間1559年に建てられ1577年に約70ヘクタールに拡張された。
アヘン戦争時一部分が破壊され,以後商店街や学校等として使用されたが1956年から再建・修復作業が始まり,30ヘクタールの庭園として今に至る。
太湖石(太湖から取れる穴があいた石灰岩)をふんだんに使って,自然を小さな庭の中に閉じ込めたような世界を創っている。
豫園の西側は,伝統建築物を再現した建物にさまざまな商店やレストランが軒を並べるマーケットとなっている。浅草の仲見世のような雰囲気である。
|
太湖石をふんだんに使った庭
奥の屋根がある建物は望江亭というあずま屋
当時は,上海で一番高い場所で,黄浦江が望めたそうだ。 |
|
|
|
|
くり抜き門
園内のあちこちで見られる"くり抜き門”は,円形・花瓶・軍配・壷・葉っぱ・炎などいろいろな形をしている。
洞窟の入り口(洞門)を意味しているという。
中国では古来,洞窟は地下深くでつながっていてその先にユートピアがあるという考え方がある(道教など)。
庭園を区切る白壁に開けられたくり抜き門は,その先に別世界があるよ!という意味合いが込められていると言う。 |
|
|
|
古戯台と呼ばれる舞台
内園の最も奥にある。
この舞台の手前左右の建物が観客席となっている。
屋根の先が反り上がっている江南独特の建物。 |
|
|
|
豫園商場
上海庶民のショッピングスポットとして賑わっている,東京で言うと浅草・アメ横,大阪ではミナミといった所か?
扇子,硯,筆,中国箸,人形,漢方薬,陶磁器,刃物,シルク製品,衣料品,食料品,健康食品,老酒などなどなんでもあり。スターバックスもあったよ!
伝統的上海料理や江南の点心を食べさせるレストランがたくさんある。
わたしは11年もの老酒(500ml)を3本買い求めた(105元 およそ1400円) |
豫園を出たところで,黄ちゃんと再会。
いったんホテルに戻って,さ〜っとシャワーを浴びる。
いま,上海の若者達のホットスポット”新天地を”を見ておかなければということで,タクシー3台に分乗して新天地へ(タクシー代12元)。わたし達の乗ったタクシーの運ちゃんは,一方通行か何かの道路規制を気にしてか,すこし手前で降ろされた,手まねで「あっちあっち」と言うので,しばらく行くと先着グループに逢えてホッ!
新天地は旧フランス租界時代の石庫門と言われる欧風アパートを改造したアミューズメントエーリアである。
都市化の進展と共に消えゆく石庫門建築を保全するため,01年末に旧石庫門街は上海新天地としてにきれいに改造され上海の新名所となった。
今では若者達と旧上海の歴史を回顧しようと訪れる大勢の観光客でいっぱい。
新天地散策のあと,一角にある”六会菜館”(店の名前はうろ覚え,正確でないかも?)でまたもや多種,多様かつ美味なる上海料理に舌鼓を打つ。
珍品として”まこも”。 沼沢地に自生する”眞菰”である。 広辞苑によれば「葉はむしろとし,種子と若芽は食用」とあった。
まこもが食べられるなんて知らなかった!
赤レンガの外壁がレトロモダンな新しさを感じる新天地の石庫門建築
レストラン,喫茶店,ブティック,バー,ライブハウス,ショッピングモールなどに利用されている。 |
[トップへ]
|