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4日目 三峡下り(2)

      
 矍塘峡〜巫峡〜神農渓〜西陵峡
 
 前の晩に配られる船のスケジュール表によれば,7:00〜7:20 矍塘峡通過となっているので,6時50分にデッキへ。両岸には数箇所に分散して新しい町が出来ていて,前回と風景がすっかり変わっている。停泊した地点はやはり奉節に間違いない。
 
 
ありゃ〜 白帝城が島になってしまった!

 6時55分出航,すぐ左手に
白帝城が見える。ちっちゃな小島で,うっかり見過ごすところだ(はじめて三峡下りをする人は,完全に見逃すだろう) 前回,800段とも900段とも言われる階段を息をはずませフ〜フ〜いいながら登ったのが嘘のよう。

小島と化した白帝城

 李白の詩でも有名な白帝城は,長江の北岸に位置して三峡の西口かつ四川省に入る戸口でもある。地形が非常に高くて険しいので,昔から軍事的要衝だった。三国志の英雄・劉備玄徳の最後の場所,臨終に際して諸葛孔明に蜀の後事を託した遺言でも有名な所だ。これらの歴史を秘めた白帝城も2009年には水中に没してしまうのだろうか。

 
白帝城を過ぎると,すぐに瞿塘峡に入る。

 船の接待係が二人デッキに現れてそれぞれ中国語と英語でガイドをはじめる。
 まずは双門またの名を瞿塘門という,刀で切り取ったような絶壁が連なり雄大壮観である。がかつての川幅100〜200mの深い谷間の奔流は姿を消してしまった。

 白帝城から大寧河口まで全長で約8キロ続く
瞿塘峡には鉄索関七道門風箱峡の古代懸棺孟良の梯子吊るし上げ和尚粉壁の石刻など名所旧跡も多い。
  
 船はおおよそ20分弱で瞿塘峡を通過。すぐ右手に南岸から渓流が注いでいるのが眼に入る。台地に小さな村落がある。ここが[
大渓文化]発祥の地巫山県大渓鎮である。1959年二度にわたる発掘調査の結果5千年前新石器時代の遺跡であることが判明し大渓文化と命名された。湖北の屈家嶺文化,江蘇の青蓮崗文化,浙江の河姆渡文化・良渚文化と並び長江流域の重要な古代文化と言われている。
 
 第二の峡谷,巫峡に着くまで1時間ほどかかる,その間に朝食。


瞿塘峡入り口 巫峡入り口に架設中のアーチ橋

 
「麗し」の渓谷といわれる巫峡へ

 
神女峰
集仙峰
巫山県大寧河口から湖北省巴東県の官渡口まで全長約40キロに及ぶ。
 
 
巫峡の入り口にアーチ橋が架設中であった。川幅が狭まった地点で橋長が短くて済むのでここを選んだのだろうが,景観台無しだよ〜ん。

 少し霞んでいる(ここは何時もそうらしい),流れのまったくなくなった湖面の両岸に群峰が屹立している。中でも
「巫山十二峰」と呼ばれる全山石灰岩からなる山々が圧倒的に迫ってくる山水画の世界でもある。
 
 両岸にそれぞれ六峰ずつ1000m級の峰のうち
神女峰の姿が有名である。
 
 巫山十二峰はそれぞれ特異な姿から詩情画意に富んだ名がつけられている。登龍峰(1130),聖泉峰(870),朝雲峰(820),神女峰(860),飛鳳峰(740),聚鶴峰(820)などなど,バッチリ見えた。前回は雨模様の天候でこれらの峰々はまったく見えなかった。

 巫峡通過に約40分,船はやがて紀元5世紀頃からの古い町巴東を過ぎて,神農渓の入り口に着く。


神農渓って小さなダム湖みたい


 ここの風景は前回の時とまったく様変わりである。渓谷の入り口はるか頭上に架かっていた橋は,今はさほど高くは感じられない。両岸には新しい町が出来上がっている。
 
 以前は,この地点で
巴東で乗り換えた動力船からまた手漕ぎ船に乗り換えたのだが,水深が深くなったため,今回はここで200人乗り位の動力連絡船に乗り換え,神農峡を10kmほど遡り,そこで手漕ぎ船に乗り換えるというシステムになった。
 
動力船から手漕船への乗換え場所 高台へ移転した土家族の部落 人と荷物を運ぶ土家族の船
近郷の大きな町である巴東辺りへ交易や生活物資を買いに行くのか

 神農渓は総延長60キロ,両岸に断崖が迫る。絶壁は80〜90度,高さは300〜800メートル。
石灰岩洞窟,象の鼻,懸棺葬棺,両岸にできた鐘乳石や石筍・石灰華が間近に見られる。
 潅木が生い茂り,ラン・ビワ・ビジョヤナギ様の黄色い花,なんと言う花だろうか紫色の花をつけた潅木などなど独特の自然景観に趣をそえる。

 「サルの群れが現れるよ」と書いてあるたて看板もあった。上流,神農架の3000m級の山には
金絲猴が棲むそうだ。
石灰洞窟 中にイワツバメの巣 岸に出来た鍾乳石  最上流部では漕ぎ手4人が船を下りて引っ張り揚げる重労働
 以前は丸裸で行なったそうだ,
チケットにその写真が刷り込まれている。

 前回手漕ぎ船が引き返した辺りは,いまでは幅500mくらいの湖水になっている,動力船は更に奥へ進み
錦竹峡という支谷にはいり,コンクリート製の護岸堤で「莢豆」と呼ばれる細長い舟に乗り換える。
 小船の定員は15人くらいか,わたし達10人と,中国系人5人と乗り合わせた。漕ぎ手は前に2人後ろに2人の4人,櫂と竿で漕ぎ進む,それに船首にチーフ,船尾に舵手の計6人がクルーである。
 ダムのバックウォーターより上流になると流れも次第に早くなりかなりの重労働である(漕ぎ手は16歳から60歳台まで,日当は20元(270円くらい)だそうだ)
 
 やがて水も透き通ってきて,川幅も狭く水深も浅くなると漕ぎ手4人は川原に下りて竹で編んだロープを使い船を上流に引っ張り揚げていく。
 観光船の運行状況から見て,多分1日2回の労働だと思われるが,この重労働で300円足らずの日当では可愛そうな気もする。 働いているのは,少数民族の
土家族である。この地域には少数民族が14種族居住しており,土家族はその一種族で,この付近に50万人が居ると言われている。

 小舟1艘に一人ずつガイド嬢が付いている(中国語でしか説明してくれなかった)が,わたし達についてくれた娘さんも土家族だと自己紹介していた。土家族は歌が上手いことでも知られている,下りに入ると歌のサービスが何曲かなされ,客にもお返しをしてくれと来た。われわれ日本人グループは,「四季の歌」と「北国の春」を皆で合唱。

 幽玄な雰囲気が漂う美しい澄んだ渓谷,土家族の風情,原始的な自然,透き通った渓流が神農渓の魅力だが,いまより更に40mも水位が上昇したら石灰岩洞窟,象の鼻,懸棺葬棺,鐘乳石や石筍はすべて沈水してしまう。今度はどんな変化を見せるのだろうかと考え,もうくる事は無いだろうとちょっと感傷的になりながら神農渓を後にした。

 13時30 
  EAST QUEEN号に戻る。
 昨日の石宝塞から帰船した時もそうであったが乗船口で冷たいおしぼりとお茶をサービスしてくれる,一昔前の中国では考えられないことである。15%のサービス料と後で言及することになると思うが堂々と金額を示してチップを要求することを思えば相応のサービスかも!

 
屈原と王昭君のふるさと遠望

 昼食を済ますと,各自部屋で休んでいるよう。
 第三番目の西陵峡に懸かる手前で
屈原王昭君の故郷を通過するはずなので,わたしはデッキに出る。
 日差しも強く,これといった観光スポットも無いのでデッキには誰も出ていない。双眼鏡とカメラを首にぶら下げて船首で居眠りしながらゆったりした気分で湖水と化した長江を眺める。
        姉帰
「屈原文化??」の看板が見える中央に「屈原祠」 水位が上がったら水没か?

 しばらくして左岸に
姉帰(ツーコイ) 本当は「姉」ではない,女偏ではなくノギ偏だが意味的には姉で合っている)の町が見えてきた。岸に「屈原文化なんとか」と読める看板を掲げた建物が見える。
 この辺りが中国の偉大な愛国詩人と言われる楚の人屈原の生まれたところ。姉帰は古い歴史を持ち漢代に県が置かれ,北周の時に長寧,隋代にまた姉帰にもどった。
 この辺りは,呉蜀の夷陵の戦いのとき劉備が築城したところでもある。

 15時30分 船は西陵峡に近づいてきた。また,船員によるガイドが始る。

 西陵峡に入る手前北岸に香渓という町がある。
香渓河と長江の合流点である,そこには王昭君の像が建っているのがかすかに見える。
 ここから香渓河沿いに30キロほど行った興山が中国古代四大美人の一人と言われる王昭君の故郷だといわれている。漢の元帝の時,故あって匈奴に嫁ぎ,長期にわたる漢と匈奴の戦いを終わらせるのに大いに寄与したと言う。人々から思慕され民間に多くの物語が生まれ,詩や戯曲や小説などのテーマとなっている。ロマンチックな思いに誘われる風景だ

西陵峡?峡谷って感じはもうしない!両岸がちょっと険しい湖面だ!

 15時45分 
西陵峡に入る。
 長江三峡の最後の峡で三峡の中で一番長い峡谷で全長は76km。以前の西陵峡は三峡の中で一番険しく浅瀬や暗礁がたくさんあり船の運行を妨げ,さらに両側の山はよく崩れ危険なところだったそうだが,今では何の変哲もない湖の一部と化した。更に40mも水位が上昇したらもう殆ど見る価値がなくなるだろう。
 と言うことで西陵峡はこれでおしまい。

 さて,次はいよいよ三峡ダムだ! 2年前とどのように変わったか?
 

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