公園のメタセコイア

うっかりして本書をどこで知ったのか、忘れてしまった。図書館のサイトで「悲嘆」と検索したのかもしれない。

これまでにグリーフケアに関する本を数多く読んできた。そのなかで最も専門的で、同時に支援者にとってはかなり実践的な本に思われる。

では、当事者にとってはどうかというと判断が難しい。悲嘆(グリーフ)について専門的に知りたい人にとっては有益だろう。専門的で網羅的なので、自分の死別体験に対する具体的な助言を探すにはすこし苦労するかもしれない。私の場合、自死遺族への支援に興味がある。これは一節を設けて詳述しているので参考になった。詳しくは後述する。

実際、著者の主張の一つは、「悲嘆はユニーク」(個人的)なありようを持つ、ということだから、網羅的な本書から自分だけのユニークな体験に有益なアドバイスを探すのは容易ではない。もっとも、「悲嘆はユニーク」という考え方を受け取るだけでも、とりわけ、画一的なグリーフケアに反発したい人にとっては十分に有益だろう。著者は次のようにまとめている。

「一人ひとりの悲嘆は"すべての人たちの悲嘆と似ている"(原文太字)。一人ひとりの悲嘆は"ある人たちの悲嘆と似ている"。一人ひとりの悲嘆は"誰の悲嘆とも似てはいない"」(序論 悲嘆やモーニングに関する新しい考え方)

共通するものがあるから学問的対象になりえる。また、支援の教育も可能になる。同時にユニークなものだから、そこに他の誰とも違う個人の尊厳がある、と言えないだろうか。

詩人の石原吉郎は「痛みはその生に固有なものである」と書いている(「痛み」)。悲しみについても同じことが言えるだろう。


本書で、ウォーデンは悲嘆を持つ遺族に4つの課題を与えることを提唱している。

  1. 1. 喪失の現実を受け入れること
  2. 2. 悲嘆の痛みを消化していくこと
  3. 3. 故人のいない世界に適応すること
  4. 4. 個人を思い出す方法を見出し、残りの人生の旅路に踏み出す

著者は悲嘆が大切な人やモノを失った人が示す当然の反応であることを強調する。だから問題は悲しいという感情の有無ではなく、その質と量にある。病気ではないから、目標は「回復」ではなく「適応」になる。

この考え方は中井久夫のトラウマに対する考え方と似ている。大切なことは感情や外傷を消してしまうことではない。そういうものを抱えながら、感情や外傷に支配されないように自分自身を守りながら、生きていくこと。「適応」とは上手なバランス感覚を意味する。

これら4つの課題を一見すると従来の段階説に見えるけど、大きな違いは当事者に主体的に悲嘆と向き合い、課題に積極的に取り組むことを促している点にある。これが私にはできていなかった。

12歳で姉を自死で亡くした私は、10代から20代まで悲しみと向き合うことをせず、茫漠とした、もちろん言語化もされていない悲嘆の海に沈んでいた。本書で使われている言葉を借りれば遷延性悲嘆(delayed grief)の状態にあった。

2002年夏、本を読み、文章を書くこと、すなわち『烏兎の庭』を始めて、少しずつ悲嘆と向き合いはじめた。グリーフケアの本や悲しみについての本を読み重ねながら、自分の悲嘆と向き合う準備がようやくできた。

そして、悲しみへの主体的な取り組みを促してくれたのが、『親と死別した子どもたちへ』(ドナ・シャーマン)だった。死別体験を自分がどう受け止めたか、何を失い何を得たか、これからどう生きていくのか。そういうことを初めて考えるようになった。

そして、20年間の読書と思索をまとめて一冊の本を仕上げた。ここで、私の悲嘆への取り組みは一区切りついたと思う。


本書では自死による喪失を「特別な喪失タイプと悲嘆の営み」という章で、二節を設けて論じている(第7章)。ここでは自死遺族の心理を非常にきめ細かく観察して説明している。そのうえで、支援者がどのように介入すればよいか、丁寧に指導する。

自死遺族には、「恥の感覚」「罪悪感と非難」「怒り」そして、自分もいずれ自死するのではないかという「恐れ」を抱いている。この分析は自分にもよく当てはまる。なかでも、姉は精神科に通院していたのに救われなかったために、私のなかでは精神科医に対する不信感と怒りが非常に大きかった。そして、過労や、横暴な取引先から受けた、いわゆるカスハラからうつ病になったときには強い希死念慮で苦しみもした。

でも、私も家族も、当時こうした感情に的を絞ったケアを十分に受けたとは言い難い。

著者は、自死遺族にはとくに迅速に介入することを推奨している。振り返ると私の家族はカウンセリングを受けることはもちろん、自助会に参加することもなく、18歳の長女を亡くした悲しみにただただ身をまかせていた。1980年代にはまだそのようなサポートは、少なくとも私の家族の周囲には存在していなかった。

だから、悲嘆は遷延し、こじれて複雑化し、心の奥底に封印されていた。10代のあいだに適切なケアを受けていれば、放浪するように旅をしたり、親しい友人を簡単に絶交したり、突然に学校の勉強を放り出してしまったり、そんな遠回りはしなくて済んだかもしれない。


自死による喪失を、著者は「社会的に話すことができない喪失」(socially unspeakable losses)であることを強調している。ほかの本で自死について使われている「公認されない死」という言葉も同じ内容を指しているだろう。

著者が支援者(カウンセラー)に伝えている介入のポイントを転記しておく。

  1. 1. 罪悪感と非難を現実検討する
  2. 2. 否認と歪みを修正する
  3. 3. 将来の懸念を探索する
  4. 4. 怒りを扱う
  5. 5. 見捨てられ感を現実検討する
  6. 6. 死の意味を発見する旅の手助け

この6項目は上記の4つの課題と密接に関連している。4つの課題を噛み砕いて、自死遺族に特有な心理を考慮して表現をあらためたものとも言える。どの項目もやさしいものではない。とくに6がむずかしい。「なぜ」という問いは尽きることなく、遺族を苦しめるから。

私も、「なぜ」を繰り返すことを止めて、姉の死を受け止めて「これからどう生きるか」という問いに置き換える努力をしているけれど、いつもうまくいくとは限らない。

うつが重いときは、障害者枠で非正規雇用という現在の不遇と、友人と呼べる存在がほぼおらず、いつでも一人で過ごしてしまう孤独癖の原因が、まるで45年前の出来事にあるかのように考えてしまう、いわゆる認知の歪みに陥ってしまうこともある。


本書は、主にカウンセラーなど支援者に向けて書かれている。議論や検討を深めるための問いかけや、カウンセリングの訓練のための事例などが数多く盛り込まれている。

専門家は常に訓練を重ねなければならないし、情報も最新のものに更新していかなければならない。たいへんな苦労があるに違いない。

そういう専門家の苦労があって、私たちは支援を受けられる。ありがたい。


さくいん:悲嘆(グリーフ)石原吉郎中井久夫自死遺族80年代うつ病孤独

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