『中井久夫との対話: 生命、こころ、世界』の著者二人による共著の2冊目。
とても勉強になった。副題にある「ガタリ・中井久夫・当事者研究」が最終章で「ケアの倫理」にまとまり、「地球環境のケア」にまで話が展開する壮大な一冊だった。
『ケアの倫理』(岡野八代)を読んだときは、「ケアの倫理」が戦争や気候変動に対しても有効であるという議論が正直、大風呂敷に感じられて、今一つ腑に落ちなかった。本書は、丁寧に議論を進めているので、「ケア」という考え方がフェミニズムだけではなく、環境問題など地球規模の議論にも応用できることがよくわかった。
感想を書く前に、本書を読みながら思い浮かんだ言葉を三つ、書いておく。
一つは、「痛みはその生に固有のものである」という石原吉郎の言葉。
二つ目は、「大切な人を失うことは苦しいであろうが、その苦しみから解放することだけが道なのか」という一節を読んだとき。前に読んだ「悲しみとともに生きる」という島薗進や入江杏の言葉を思い出した。
三つ目。映画『ビューティフル・マインド』から。統合失調症に耐えて、ノーベル賞を受賞したときのジョン・ナッシュの言葉。
My quest has taken me through the physical, the metaphysical, the delusional -- and back.
ナッシュも、異界を深く遠く旅して帰還した一人だった。
本書の感想。副題の順序とは異なり、本書はいわゆる当事者研究の紹介から始まる。その言葉は聞いたことはあっても、内容はよく知らなかった。
当事者研究というものじたいを知らなかった。本書によれば、当事者研究とは次のように定義される「プロセス」。
基本的には、精神疾患をもちながら暮らしている人たちが、「生きづらさ」「困りごと」を持ち寄って、仲間と語らいながらその人らしい「自分の助け方」を研究していくプロセスである(1 異界)
当事者研究の説明の中で興味を引いたのは、「外在化」という考え方。統合失調症の症状である妄想や強迫は自分の内側で起きるのではなく、外側から押し寄せてくるという見方。こう考えると、「症状を当事者の人格から引き離し、その人格を否定しないことを可能にする」。
この考え方には共感した。というのも、うつが津波のように襲ってきたような経験があるから。うつの症状も内側で生じるのでなく、自分の外側から押し寄せてきた。うつの症状が落ち着いてからは、このような波の発生を事前に察知することができるようになり、対処も上手になってきた。
具体的には、うつの波を感じたら、早めに寝るなり、カラオケに行くなり、防潮堤の上に避難することができるようになってきた。自分では回復への大きな進歩と思っている。
中井久夫の「寛解過程理論」についての論述もとてもわかりやすい。
精神疾患を状態でなく、過程(プロセス)と見る中井久夫の考え方は、悲嘆の緩和、いわゆるグリーフケアの理論と重なる。グリーフケアでは、喪失体験から新しい生き方を獲得するまでを段階としてとらえる。悲しみに暮れる前期より回復していく後期のほうが対処がむずかしいという点でも共通している。
中井久夫はグリーフケアを専門としているわけではないし、私の知るかぎり、著書に悲嘆についての記述もない。それでも、自死遺族の一人として複雑性悲嘆を抱えた私が自分の悲嘆と向き合うときに、彼のトラウマや記憶のとらえ方や統合失調症の回復過程についての分析は非常に助けになった。
うつ病を患ってからは、健康と病気を単純で硬直した二項対立でとらえず、精神状態のグラデーションでとらえる中井久夫の考え方にずいぶん救われた。
前著、『中井久夫との対話: 生命、こころ、世界』で、著者二人は中井思想の体系的理解を目指した。本書ではさらに中井の思想を「異界彷徨としての精神障害」「ケアの倫理」などへ応用を試みている。中井の臨床哲学にはまだまだ汲み尽くせない深いものがあるだろう。
ガタリについては読んだことがなかったので、行論は少しむずかしかったけれど、わかりやすい例え話や図もあり、理解の助けになった。
最終部では、「ガタリ・中井久夫・当事者研究」の三つの視点が総合され、「ケアの倫理」へと議論は集約されていく。ここで持ち出される「ジャガイモと畑」の例えがとてもわかりやすく、「ケアの倫理」を説明している。個々のジャガイモだけに目を注ぐのでなく、ジャガイモを育てている畑の土に目を向けること。「第9章 自然環境に向けてケアをひらく」では「人間と自然環境との共感的関係や内的な結びつき」と言い換えられている。
「ケアをもたらす異界」と題された最終節にまとめられた「異界」とケアの関係。
そして「異界」とは、そのような狐神や精霊のように、客観的にとらえられた日常世界においては実在しないが主観的にとらえられた世界において実在する諸存在との交流がおこなわれる場を指す言葉である。そうであれば、「ケア」はそのような場を顕現させる行為であると言ってよいかもしれない。(第9章 自然環境に向けてケアをひらく)
本書の議論からレジリエンスとPTGについて議論を広げることもできるかもしれない。
人は誰でも、自分が抱える心の問題を治癒する力を元から持っている。統合失調症の症状を「外在化」させ、自己救済に活用する「ツール」にする当事者研究はレジリエンスの一つのあり方と言えないだろうか。
PTGについて、私はレジリエンスの過大評価と考えている。人は誰でも心の病から回復する力を内在させているとしても、回復以上の「成長」までする力を持っているとは限らないし、必ずしもそうある必要もないと思う。
本書は、レジリエンスとPTGに直接触れてはいない。「ガタリ・中井久夫・当事者研究」の三点に立脚した視点から、私の理解から遠い結論が出てくるようには思われない。この点については、二人のこれからの研究に期待したい。
本書は哲学書ではないけれども、「存在」と「実在」について、中世神学からカントを経てベルクソンへと至る近代哲学の見取り図は簡略ではあるものの、非常にわかりやすかった。
本書は、精神医学、臨床心理学、哲学、さらには医療人類学など、さまざまな分野に分け入るための格好の入門書と言えるだろう。
さくいん:村澤和多里、中井久夫、石原吉郎、島薗進、うつ、悲嘆(グリーフ)、自死遺族、ベルクソン