田園調布の家、江戸東京たてもの園

久しぶりに目から鱗が落ちる読書体験だった。きっかけはあるWEB記事レジリエンスPTGという考えに違和感を抱いている理由がすっきり解けた。

違和感の根源は、レジリエンスという考え方が回復した後に病気になる前よりも強くなることを求め、そうなることは当然と考え、だから、すべてのうつ病患者が強く回復しなければならないと求めているから。

しかも、その力は誰にでも備わっていると説くことで内面での自己監視を強制する。

具体的な例としては月100時間の残業でうつを発症した人がまた月に100時間、いや、それ以上の残業に耐えられるようになるシナリオを治療とリワーク(就労移行支援とも言う)を通じて内面に強制的に書き込むこと。

寛解とはそういうものではないだろう。多くの精神科医はうつになったことをいい機会にして多忙で強迫的な生き方を反省し、焦らない、自然な、もっと余裕のある生活をはじめることを勧める

レジリエンスの考え方はこれと真逆にある。

   レジリエンスをトレーニングしてまで身につけさせようとする社会においては、戦争や災害、別れを経験しても、嘆き悲しんで意気消沈して悲しむのではなく、それを短期間で乗り越え、前を向いて元気に生きていく能力が望まれる。
(第8章 自殺論)

これでは治りかけたうつの再発を引き起こす危険性がある。著者が警鐘を鳴らすのはもっともなことと思う。


そもそも、「医療人類学」という言葉が初耳だった。病気、とりわけ精神の病気は時代や地域文化によってとらえ方が異なる。何が病気かという区分けさえ、普遍的なものではない。当然、治療法も違ってくる。その時系列的な変化や、風土による多様性を研究することが医療人類学というものらしい。ある症状を病気とみなし治療の対象とすることを「医療化」(medicalization)という。

哲学者らの壮大な議論を横目に、実際に医療化が進行している現場に入って、そこで何が起こっているのかを確かめるのが医療人類学者の役目である。
(序章 うつと自殺の医療人類学)

医療人類学の立場から著者は日本でのうつ病の広がりについて功罪両面を見ている。

一方で日本では「過労→うつ→自死」という危険性が早くから認知され、うつは社会問題としてとらえられている。

他方、上でレジリエンスへの批判で見たように、うつは誰でもなりうる病気であるから、誰でも回復できて、しかも病前よりも強くなれる、という誤った信仰めいた考え方も普及しはじめている。

後者にばかり批判的な目が向いていた私としては著者が「うつの社会問題化」を積極的な意味で捉えていることを新鮮に感じた。西欧が正しく日本が誤りという単純な見方をしないところが「人類学」的な視点なのだろう。


もう一つ、日本のうつ治療で特異なものと著者が見ている点がある。それは生理的(biological)な面に焦点を当てて、患者の人生観や精神の根源には踏み込まないようにしているという点。欧米ではうつを人生観を見つめなおすきっかけにする傾向が強いという。

この指摘を受けて、自分の治療体験を振り返るとなるほどそうだったと納得した。

自分ではうつの病因に10代の頃のいくつかの事件が関わっていると思っていて、医師にも何度か伝えている。

しかし、10年近く診てもらっているS先生は「不眠、不安、気分の乱高下をまず何とかしましょう」と提案し、目の前の生理的病状の解消するため薬物療法を重視する。

もちろん、薬を出すだけではない。励ましたり慰めたり、褒めたり気づかせたり、S先生はいろいろに働きかけてくる。これは十分に卓越した「精神療法」だろう。S先生の言葉には薬以上に助けられている実感がある。


うつには多様な見方があることを本書は教えてくれた。

ふだん私は「病気なんだ」「障害者なんだ」と固定観念にとらわれがちなので、いわゆる「認知のゆがみ」を矯正してくれたことでも本書には感謝したい。


さくいん:うつS先生