初秋の黄昏

書名のリンク先は文庫本。実際は図書館で借りたハードカバーを読んだ。書影はそちらのもの。

先月始まった東野圭吾ブームの続き。またしても家族の秘密の物語。今回は露骨に世間から差別を受けるような秘密。隠していても、いつの間にか周囲に知られていて、次第によそよそしくされる。隠し通すことができない。そういう秘密。

兄が弟へ手紙を出しつづけた理由には、「俺がこんな犯罪をしてしまったのはお前のためだった」という責任転嫁の意図もあったと思う。実際、勾留直後には弟も自責の念を感じている。ところが「強盗殺人犯の弟」というレッテルが次第に重荷になり、弟は兄を疎んじるようになる。弟は薄情ではないか。ふと、そう考えた。

だから、結末が曖昧な気持ちで終わっていることに、むしろ安堵した。人間の気持ちは、とりわけ家族の間の思いは手紙一通で簡単に割り切れるものではない。割り切れない、揺れ動く弟の心理描写は東野らしく非常に丁寧で巧み。

罪について。赦すかどうかは被害者が決めること。これだけ謝ったのだから赦してくれ、という取引はできない。加害者は被害者が「赦す」と言うまで謝り続けなければならない。

しかし、そのことと犯罪の原因と責任を加害者一人に負わせることは違う。本書の犯罪も『流星の絆』の兄弟たちが犯した犯罪も、根底には貧困の問題がある

このような犯罪を減らすためには、加害者だけを罰すればよいというものではなく、社会政策も考慮に入れなければならない。昨今の犯罪報道を見ると、加害者個人の資質ばかりを責めるようなケースが多いように感じる。「罪を憎んで人を憎まず」という箴言はもう廃れてしまったのだろうか。


いつの間にか周囲に知られていて、よそよそしくされる。そういう秘密を抱えて私も生きてきた。でも、主人公とは違う生き方をしてきた。正確に言えば、主人公が最後に選び取った生き方をしてきた。そう、家族の一人を最初からいなかったことにして、ずっと隠して生きてきた。秘密から目を背け、自分さえも騙して生きてきた

だから、秘密の露見におびえる主人公の気持ちがよくわかった。兄を疎んじる弟を責める資格は私にはない。

進学でも、クラス替えでも、就職でも、結婚するときさえ、秘密を守り通してきた。妻には交際中に打ち明けたけれど、妻の家族は今も知らない。

だから、本書を読みながら考えていことは、犯罪加害者家族の秘密ではなく、自分自身が隠してきた家族の秘密、そして、その生き方についてだった。

『庭』のなかで少しずつ明らかにしていても、匿名で書いていても、今、この文章のなかでその秘密について書くことをまだためらっている。偏見は世間ではなく、むしろ自分にあるのかもしれない。それが「カミングアウト」をためらわせている、そう考えると合点がいく。

打ち明けたい。でも、隠しておきたい。

一通の手紙で捨てられるほど、また一行のカミングアウトで明らかにできるほど、少なくとも私にとっては、家族は軽くない。


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