寄り添う二輪のハイビスカス

『舟を編む』を読んでから次に読む三浦作品を探していた。書店で文庫化のキャンペーンをしていたので内容も確認せずに購入して読みはじめた。没入してしまい、あっという間に読み終えてしまった。読むのが早過ぎてもったいない気がしたので、もう一度読んでみた。


女子校で出会ったののとはなは、なぜか気が合い、かけがえのない親友となった二人は、やがて恋人同士に。「運命の恋」を経て、少女たちは大人になる—— 。

あらすじについては辻村深月の解説から引用で十分伝わるだろう。ちなみに、辻村深月の作品は未読。

本書は500ページを越える全編が書簡。時間の経過は30年以上に及ぶ。濃密な二人の魂のふれあいが時に諍いを交えながらも、互いを尊敬する気持ちは失われずに長い年月にわたり続いていく。

友情は恋心になり、やがて「人として」互いに尊敬する「ソウルメイト」と呼べるような感情に変わっていく。

二人は大人になると別々の選択をして、一時期、疎遠になる。でも、再会すると(書簡の上で)、一気に十代の間柄に戻る。そんな友人がいたらいいなと単純にうらやましくなる。これほど濃密な人間関係を私はもったことがない。

ただ、片想いではあったけれど、この作品に描かれているような、二度と持てないような特別な気持ちを人に対して抱いたことはある。


最も純粋な愛の形、あるいは最も原初的な愛の形というべきか、それは「あなたのそばにいたい」ではなく「あなたのようになりたい」という心情なのかもしれない。『君の膵臓をたべたい』にもそういう言葉があった。この作品からはまだ抜け出せないでいる

あなたのようになりたい

好き、憧れ、恋。それをみんな含んだ、広く深い気持ち。私にもそう思う人がいた

でも、その人は、さよならも言わず、遠いところへ立ち去った

あの人のようになることを目指すことは死に近づくことを意味した。その気持ちはとても怖いものだった。かといって、あの人のほかになりたい人も見つけられなかった。私の十代は愛について、そういう不安定な思いを抱えたまま過ぎていった。

冗談に思われるかもしれないけど、数学が得意になることが怖かった時期もある。半分は数学で落ちこぼれた言い訳だけど、半分は真実。

「なりたい人」を失い、誰のようになればいいか、わからなくなった。言葉を換えれば、私は最も身近で、これ以上ないはずのロールモデルを失った。

私の悲嘆は「なりたい人」の喪失だった。本書を読んで、そう気づかされた。

「なりたい人」の喪失は秘密だった。「公認されない死」だったから。だから私は誰にも心の扉を開くことなく、いつも距離を保って交友関係を構築してきた。

もちろん、私の人生は私が選択してきたのだから、失敗も過ちも誰かのせいにはしない。同時に「憧れの人」を失くしたことが、私の人生に影を落としていることも間違いない。


この作品は登場人物の旅立ちで終わる。死では終わらない。いい終わり方。賢明な選択と思う。事実として死で終わるノンフィクションならばともかく、小説を死で終わらせる手法を私は好まない。物語が安っぽい感動で薄まる。とりわけ、自死を小説の「仕掛け」に使った作品には嫌悪感すら感じる。だから漱石でも私は『こころ』よりも『行人』を推す。

読みながら、手紙の日付を見て、東日本大震災が最後に起きることは予想できた。二人のうち、どちらか、もしくは二人とも亡くなって話が終わると思った。それだったら嫌だなと思いながら読み進めた。結末は再生と新生を感じさせるものだった。ほっとした。

二人の交信はこの先も続いていく。それを予感させる読後感はすがすがしい。

三浦しをんを読むのは2作目。『舟を編む』は、爆笑を誘うラブレターを含み、軽妙洒脱な文体だった。本書は、それとはまったく違う文体で書かれている。高校生、大学生、40代の手紙は見事に書き分けられている。とても文章の技量が高いと思う。

最近の小説では若い人の流行語が不用意に使われて辟易することが少なくない。そういう隙や迂闊なところが三浦の文章にはない。

もう一つ、彼女の作品を読んで思うことは、登場人物の「品がいい」。「凛としている」と言ってもいい。それは、高い文章の技量が成せることであるのは言うまでもない。

登場人物が齢を重ねても、物語が長編になっても、文体がブレることはない。三浦しをんの魅力は、一つの作品を通じて揺らぐことのない文体にあると思う。

さまざまな文体を書き分けることができて、それでいて体幹の堅固な文体に憧れる。私には一通りの文体しかない。これでは、いくら文章を書くことが好きでも、小説家になることはできないだろう。


ふと考えた。この物語、男女の関係だったら成立したか。高校時代に深く交際した二人が四十代になり、再会して「魂の交信」をする。互いに配偶者がいたら、不倫と間違えられるだろう。ちょっと考えられない。同性だから成り立つ話ではないだろうか。男同士でも、性交渉の有無は別にして、こういう深い友情関係はあり得るだろう。

私には同性も異性も親しい友人が少ないので、「魂の交信」は想像の域を出ない。


ところで、この作品、前半の舞台は横浜。ののとはなが通う女子高は横浜にある。正確に書けば石川町駅を降りて坂を登った上の山手にある。

石川町は高校への通学時に通過していた駅。山手の港が見える丘公園にもなじみがある。聖フランチェスカという学校は実在しないけれど、ミッション系の学校がいくつかある。

二人の手紙のやりとりを読みながら、朝早い電車で横目で見ていた女子高の生徒たちを、ののとはなのような特別な友人同士もいたのかもしれないと、なつかしく思い出した。


印象に残った一節を書き写しておく。

   あなたの言うとおり、記憶が私たちを生かす糧です。過去を振り返るといった、後ろ向きな意味では決してなく、これまで感じた愛、与え、与えられた愛の記憶のみが、ひとを支え、まえへ進ませる力となるのだ、と、いまになって思います。あなたの一部が私のなかに、私の一部があなたのなかに、うつくしい結晶となって宿っているのを感じます。それが放つ光に導かれて、あなたが進む道を決めるだろうことを信じます。私もまた、光に恥じぬ行いをせねばなりません。
———三章 ののからはなへのメール(2010年7月17日)

遠く去ったあなたの「記憶」が私を生かす糧となる。あなたの一部が、私の一部になる。同じような言葉が『君の膵臓をたべたい』のエピローグにあった。

私ね、春樹になりたい。春樹のなかで生き続けたい

遠く去ったあの人の「記憶」が私を生かす糧となる。あの人の一部が、私の一部になる。

そうあってほしい。私はまだ、自信をもってそうとは言えずにいる。


さくいん:三浦しをん『君の膵臓をたべたい』自死悲嘆秘密夏目漱石横浜