森有正の説教集で未読のもの。幸い図書館にあったので借りてきた。
信仰にまつわる言葉にいくつか印象に残るものがあったので書き残しておく。
一つ目は、「本当の自由と解放は束縛を伴う」という言葉。
本当の自由とは何か。そのために自分がその解放や自由に向かって走っている、そのものの根源に対する心の底からの服従また信頼、そういうより深い束縛があって始めて私どもの前に自由が実現されてくるのだ。(「アブラハムの信仰」「3 本当の自由と解放」)
この論理は「権利を主張する前に義務を果たせ」という議論とは違う。ここでは主として神に対する服従を指しているのだろう。信仰は自分を解放すると同時に束縛するという考え方はわからなくはない。自由と束縛は単純に対立する概念ではない。そういう見方は新鮮に感じた。
次に気になったのは、人が神と出会うのは、自分だけの心の秘密、ないし心の闇の中でという考え方。
人にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。(「アブラハムの信仰」「4 アブラハムへの召し」)
先日ラジオで聴いたヘンリー・ナウエンについての講演でも、神は外にはいない、自分の内にいるという指摘があった。佐藤研もパウロが改心した契機は「自己崩壊を目の当たりにした」ことだったと書いていた。これは信仰について考えるとき、とても重要な考え方かもしれない。
最後に、信仰のよりどころについて。
森は、「なぜ信じるのか」という問いに対し、「何も証拠は出せない」と断ったうえで次のように述べている。
ただ、私の本当に心から尊敬する人がすでに多数キリスト教を信じてこられた。また過去の歴史の中でも、偉大な人がたくさんキリストを信じてきた。そういう人たちに対して、私もここでは本当の意味で深い信頼の念を持っている。その意味で、やっぱりキリストを信じるほかはない」(「土の器に」「2 信仰と信頼」)
「あれ、そんな理由で信じていいんだ」。そういう驚きのある言葉だった。前に最相葉月がクリスチャンにインタビューした『証し』を読んだときも、人それぞれ、さまざまな理由で入信していて、なかには私から見れば軽い気持ちと思えるようなきっかけで信徒になった人もいてとても驚いた。私は信仰を厳格なものと思い過ぎかもしれないとさえ感じた。
森有正が「尊敬する人が信徒だったこと」を信仰のよりどころとして挙げていることにはとても驚いた。遠藤周作の母への思慕を例として挙げている。森の場合、父への追慕の念もあったかもしれない。
私がキリスト教に関心を寄せているのも、これまで出会い、尊敬している人たちに信徒の人が多かったから。学部時代に教わったF先生。大学院で指導を受けた政治思想史のC先生、日本政治思想史のM先生、アメリカ史のS先生。森有正もその一人。中井久夫の名前も挙げておく。
以上、印象に残ったところを三点、抜き書きしてみた。簡単に説明をつけてみたものの、いずれの点も私には縁遠い。満足な豚でいるから、束縛が見えるまで根源的な自由を求めていないし、自己崩壊するほど心の奥底を厳しく見つめたこともない。
自己崩壊寸前の危機は、何度か経験している。でも、いずれのときにも、とことん落ちて、落ち切ったところで自分を見つめるというよりは、逃げて逃げて、何とか生き延びたという感じだった。心の奥底に沈澱していた悲しみに向き合いはじめたばかりで、そのさらに底はまだ見ることができていない。
キリスト教徒で尊敬している人は少なくなく、彼らがどんな信条を持っているか、知りたい気持ちもあるけれど、直接問いかけたことはないし、それだけを理由に入信することはないだろう。
そして、何よりキリスト教が自死に対する公式見解を改めないかぎり、私の関心は霊的なものへ近づくことはなく、知的関心の領域にとどまるだろう。
さくいん:森有正、秘密、闇、パウロ、佐藤研、最相葉月、中井久夫、自死