6ヶ月にわたりラジオ講座を聴いた。ところどころでよくわからないこともあったものの、いくつか重要に思われる気づきも得られた。
聖職者は人々を指導する立場にあるのだから弱いところは見せてはいけないという前提がカトリック世界にあり、ナウエンはその風潮に反して自らの弱さをさらけだすことでかえって共感を得た、ということがキーメッセージだったのだろうか。とすれば、それは教会内部の話で終わってしまう。
オランダからアメリカに留学し、有名大学で教授となり、知的世界で頂点を極めたように見えた人が、自らその地位を捨てて、人の上に立つことよりも人と分かち合う道を選んだ、という理解をすべきなのだろうか。とすれば、少しは共感も湧く。
ただ、私の場合、自ら選んだのではない。傷つき疲れ果てた挙句にビジネス世界から追放され、病者として社会の片隅で生きることを余儀なくされた。そこで自分の弱さと向き合わなければならなくなった。弱さを認めることから「傷ついた癒し人になる」という本講座の肝心なところが理解できない。到達することはなおできない。
私はまだ他者と分かち合うこともできず、他者を受け入れることもできずにいる。ただただ自分の弱さを恨みがましく嘆いているだけ。
だから「弱いときに強い」というパウロの言葉も理解できず、弱いときにさらに弱くなる。
興味を引いたのは最終回で聴いた「放蕩息子の帰郷」の解釈。人には帰郷した弟の一面もあれば、真面目に耐え忍んだ兄の一面もある。そして人は、遠回りして傷つき帰郷した息子を受け入れる寛容な父になることもできるという話。これまで私は誰に当てはまるかとばかり考え込んでいたので、この解釈には目から鱗が落ちるような気がした。
「神を自分の外に探すのではない」「自分を見つめている神の存在に気づく」という言葉も気になった。この視点の転換は、フランクルの「人生に何か求めるのではない」「人生が何を求めているか」という視点の転換に似ている。
信仰心のない私は神の視線を感じることはもちろんない。それでも、自分の外側をいくら探しまわっても見つかることはない、ということは何となくわかる。
いま自分の時間も潤沢に持てていて、心の余裕もある。こうして「書くこと」が生きがいになってもいる。「幸せ」と言い換えてもいいかもしれない。でもそれは働きがいとのトレードオフで得たもの。労働はまったく無味乾燥な時間になっている。何もかも手に入れることはできないことはわかっている。仕方のないこととあきらめるしかない。
潤沢にある自分のために使える時間。この時間に深く自分を見つめて、私を見守る視線に気づくことができるか。いまはまったく自信がない。