3/27/2016/SUN
人生ドラマの自己分析―交流分析の実際、杉田峰康、創元社、1976
就労移行支援事業所に置いてあった本。著者は交流分析とエゴグラムという心理学での性格分析の手法をアメリカから日本へ導入した医師。
結論だけを書けば、交流分析もエゴグラムも、経験の豊富な医師やトレーナーが長い時間をかけて患者(クライエント)と関わることで初めて有益なものとなるように思う。
エゴグラムは以前、試したことがある。職業に対して非常に悪い結果だった。そのとき、トレーナーに「もっと客観的にみれば、いいところが見つかりますよ」と慰めされた。
そのとき気づいた。エゴグラムに回答した時、私は前職の会社の上司や同僚を念頭に置いていた。彼らは皆、スキル、リーダーシップ、そして、モチベーション、いずれにおいても、私よりもはるかに優れていた。だから、仕事を辞めざるを得なくなったとき、強い劣等感を抱えていた。
そこで、助言に従い、周りを見渡し、基準を事業所に来ている他の利用者にした。気持ちも、元気に仕事をしていた頃を思い出し、これからの展望もなるべく楽観的に考えるようにしてみた。若くて職歴も浅い人たちを基準にすれば、「能力的にテキパキ仕事を片付けていく方ですか」や「物事を分析的に良く考えてから決めますか」はYesになるし、「劣等感が強い方ですか」はNoになる。
果たして結果は、「組織としてはこの人物を雇用するメリットはほとんど無いでしょう」とこき下ろされた前回とは打って変わって、「組織内における順応性は高いでしょう」だった。
エゴグラムもその派生であるOKグラムも、回答は非常に主観的なものになる。どこに基準をおくかによって、結果は全く違うものになる。その時の気分でも違う。言葉を換えれば、結局のところ、被試験者が置かれた環境によって結果はいくらでも変わる。
3人の部下を持つ係長と1万人の社員の上に立つ社長が同じ質問に回答したとき、Yesの質は同じではない。若くて昇進したばかりの係長は自分について肯定的かもしれないし、業績が低迷する会社で株主から突き上げを受けている社長は、高い職務能力を持っていても、悲観的になっているかもしれない。
そもそも自分に厳しいか人か甘いか人かで、回答はずいぶん変わるだろう。とすれば、性格の分析をするために、回答者の性格を知らなければならないという矛盾に陥る。
エゴグラムと交流分析に対しては、医学的エビデンスが少ないという批判があるらしい。それでも、広く利用されているのは、医師の豊富な経験が客観性を補っているからだろう。
長く関わり、患者の性格や生育史を深く知れば、分析結果の評価もより客観性が高く、患者に有益なものにもなる。だからこそ、精神科や臨床心理の現場で活用されているのだろう。
交流分析についても同じことが言える。一回してみただけでは何もわからない。それどころか、幼少期の体験全体を支配する一つの「脚本」で決めつけることによって、むしろ、患者が自分と向き合うことを阻む恐れがある。重要なことは人生を決めつけることではないはず。刻々と変化する自己を柔軟に受け入れ、自ら変わっていく勇気を持つことではないか。
おそらく現場では、もともと人生が「脚本」に決めつけられている人、つまり、病的な状態が長く固定してしまっている人に対して使われていると推察する。健康な人には必要ないだろう。
中井久夫は、人生を一つの「脚本」に収斂することについて否定的な見方をしている。
敢えて言えば、言語的な語りとして自己史を統一することは絶対的に必要ではなく、また必ずしも有益でもない。むしろメタ記憶の総体の連続感をほぼ満足できる程度に維持する、あるいは修復することが現実的な目標であり、ある意味ではより高次な目標ではないだろうか。
(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷(sign, memory, trauma)』)
「より高次な目標」という指摘は重要に思われる。
なぜ、「メタ記憶の総体の連続感をほぼ満足できる程度に維持する」ことが、「より高次な目標なのか」。それは、上にも書いたように、人の気持ちも、置かれている環境も、刻々と変化するものだから。変化に柔軟に対応するためには、動かぬ存在として自己をとらえるのではなく、臨機応変に解釈し直すことができる存在とみなしたほうがいいだろう。
精神医学についても心理学についても、私は専門的な知識を持っているわけではない。この分野に関心を持っている一読者としての感想を述べたに過ぎない。
エゴグラムは、その時の自分の状態や周囲の状況を分析するには、一人で行っても有効かもしれない。