3/13/2016/SUN
A 20 Year Retrospective, photograph by Michael Kenna、édition treville、リブロポート、1997
Retrospective Two, photograph by Michael Kenna、édition treville、河出書房新社、2005
FORMS OF JAPAN, photograph by Michael Kenna, written by Yvonne Meyer-lohr, Prestel Pub, 2015
マイケル・ケンナ写真展 西武百貨店渋谷店 美術画廊
『うつの世界にさよならする100冊の本 本を読んでココロをちょっとラクにしよう』で紹介されていた写真集。
日高理恵子の樹木の枝が画面いっぱいに広がる作品に出会った時、「探していたのは、この構図だった」と快哉したことを覚えている。
写真集を広げてマイケル・ケンナの作品を初めて見た時、「模倣でもいいから、こんな写真が撮れるようになりたい」と思った。実際、私がこれまでに撮った写真は、図らずもケンナの作品に似ているところがある。
正方形。対角線を活かした構図。ときに錯視芸術のように見える左右や上下の対照。一本の木、森、湖面に映る月。
もちろん、私の写真はケンナのそれと比べることができるような代物ではない。そもそも、私の場合、正方形と言っても、大きなサイズで撮影した画像から見栄えの良い部分を正方形に切り取っているだけ。初めから正方形で精確に最善の構図を捉えているケンナとは似て非なるもの。
例えば、白く輝く光背の前に座する鎌倉大仏のような写真は、どう細工しても私には作ることもできないし、まして一枚の写真として撮影するとは、どれほどの集中力を必要とするのか、想像もできない。
初めからファインダーを覗いて正方形の構図を写しているとしたら、おそらくそうなのだろうが、相当な根気と技能が要るだろう。
絵画や写真のような芸術には「物語」のある動的なものと、見る者の内面に差し込んでくる静的なものがある。西洋絵画には動的なものが多い。ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」にしろ、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」にしろ、現代的なマグリットの「光の帝国」にしろ。静かな光景を描いたホッパーの“Nighthawks”でさえ。
例外は、私の好きな画家のなかではロスコだろうか。広大な色の海に引き込まれてしまいそうとも言えるし、色そのものが見ている者の心を染めていくとも言える。長谷川潔のメゾチントも、見る者に物語を想像させるというよりも、作品が見る者の内面に侵食してくる、と言いたくなる。
そうした意味では、モノクロという共通点もあり、マイケル・ケンナと長谷川潔には、私の嗜好のなかでは通ずる何かがある。
1970年代から90年代の作品を集めた“A 20 Year Retrospective”と2000年以降の作品集、“Retrospective Two”、さらに最新作では趣きがだいぶ違う。
初期の作品は、正方形以外のサイズも多い。濃淡のコントラストは小さく、画面は黒と灰色の構成されているため、全体に暗い。被写体は橋や駅など人工物も少なくない。
2000年以降の作品は、すべて正方形。題材は、教会建築もあるが、ほとんどは木や木立、湖など自然。
正方形の写真の周囲には白い余白がある。この余白が重要であることに、画廊で作品を見たときに気づいた。
画廊で展示してある絵は、写真集よりさらに余白の大きな額に収められている。額縁の色は黒。濃淡の差は大きい。空も湖面も白く、木々や岩は黒々としている。北海道の雪景色の写真が多いせいもある。
余白が大きいと、小さな箱の窓から中にある小さな世界を覗いているような感じになる。箱のなかで、風景は奥行きをもって広がっている。
日高理恵子の作品には額がなかった。サイズが大きい作品の場合、画面が見ている者を包み込んでくる。だから、樹の枝は画面からはみ出して広がっていくように感じられる。ほんとうに樹の下に立って枝を見上げているような気持ちになる。
画廊で、テーブルに置いてあった新刊を広げてみた。余白は小さく、写真がページいっぱいに印刷されている。奥行きは感じられず、写真がこちらに押し出されてくるような感じがする。
正方形と濃淡のコントラスト、そして、余白。この三つの要素が、風景に静謐な雰囲気を与えている。
試みに、これまで撮った写真から気に入っているものを「マイケル・ケンナ風」にしてみる。
模倣でも構わない。