JOHNNY

 

 

We remember Johnny 

 

 

 

 

 

 

 

☆ぼくは今ハワイのパンチボール共同墓地にいます。パール・ハーバーを遠くに眺望する明るい場所に、ぼくの東京時代のアメリカン・ファミリーが眠っています。

ヘンリー・アンダースン(Henry Anderson) : 彼は第2次大戦後GHQの下で日本の再建に携わった建築家で、主に工場の設計をした。ハリウッドの俳優クラーク・ゲーブルに似ていて、二科会の新進画家荻原寛子と結婚した。日本を愛した人だが、晩年はどういうわけか不遇で、日本人の男の友達は一人もいなかった。ぼくをストレンジャーと呼んだ。1992923日死去。

ジャニー・アンダースン(Johnny Anderson) : 一人息子で、天使のような容貌と性格がみんなから愛された。しかし、22才のときNHK美術部に入ってまもなく心不全で天国に旅立った。1986828日。最後の言葉は、〈お母さん、苦しいよ!〉何がジャニーを苦しめたのだろうか?悪質な日本の社会では長く生きられなかったのか?墓地がなかなか決まらなくて、9111月兄貴がフランスに行くとき挨拶するまで遺骨が居間に置かれていた。ぼくと最後の別れをしたかったように思えた。

ぼくは去年パール・ハーバー奇襲攻撃の真相をHHJに書いて、NHKに送った。しかし、特殊法人放送局は知らん振りで依然として国民だましの歴史番組を作り続けている。日本人がアメリカ人を理解できるはずがない。アメリカ市民がいつから神経質にピストルで私生活を防衛するようになったか、考えてみよう。西部劇の延長戦をやってるわけじゃない。

HHJ 20022Vol.84 〈無意味な破片〉より

編集長―大事なのは、アメリカは天皇への親電をワシントン時間6日午後9時東京に送るとき、1時間20分前に新聞発表していることだ。それに希望を繋いでいた国民もいたわけだよ。

一方、日本はと言えば、時事通信社の石井正産業部長が大館の内外情勢調査会で2001年2月28日講演した内容に典型的に現われている。〈世の中には卑怯さで成功した人が少なくない〉ので、卑怯な行為を勧めたいというのである。これは戦後教育の見事な成果だろう。新しい世界の変化に対応させるために、アメリカやヨーロッパは再び日本の法律制度と思想の枠組みを考えてあげて、その適用の面倒まで代わりに見てやらなければならない。いやはや、いつ日本と法律制度防衛協定を結びましたかな、と肩をすくめたくなろうというものだ。

 

[20031 2  早大旅の会HP BBS(掲示板) 一部修正]

; この通信は30年ぶりにインターネットで再会した旧友たちに読ませるために書いた。ハワイから、という設定はむろんフィクションである。

 

 

 

 

HHJ

 

 


       

 

 

 

パール・ハーバーとは何か?      

 

HHJ  VOL.81 2001.8 無意味な破片

 

アメリカ映画の宣伝ポスターを見て、編集長〈不死身のハセ〉は、歴史的な情報公開文書が載る《真珠湾:最後の真実》を熱心に読み1HHJで議論することにした。ハワイはアトリエ ハーフ アンド ハーフと深い関係のある島だから、なのだ。

   

ハセ―日本軍の真珠湾奇襲攻撃がなぜ歴史上他に例を見ないほどの戦果をあげたか、やっとその理由が分かったよ。真珠湾基地にいたアメリカ軍のトップの職務怠慢なんだ。ハワイ軍管区司令官ウォルター・C・ショート(Walter C.Short)1941年11月5日SOP(V標準作戦手順))を自分勝手に書き直した。SOPはワシントンの陸軍省が決めた防衛策で、危険度の高い順に警戒態勢の段階を記してある。ショート司令官はその順序を逆転させた。そして、そのことをワシントンに通知しなかった。陸軍と海軍は11月27日、対日交渉が破綻したために真珠湾の司令官に特別戦争警報を発した。ショート司令官は実に簡単な返電を送っている。〈破壊行為(サボタージュ)に対する警戒態勢を全部隊に指令。海軍とも連携。〉最初の文は危険度が一番少ない第1警戒態勢に当たる。つまり、ハワイ諸島での〈破壊行為(サボタージュ)および暴動に対するもので、外部からの脅威がない場合の防衛措置〉を取るということだ。

特派員―すると、真珠湾が海や空から攻撃されることは予想しなかったんですね、その司令官は?

ハセ―海軍との連携は、第2警戒態勢を示唆している。〈水面下、海上、空からの敵対行動〉をも予想していたように受け取れる。しかし、偵察飛行とレーダーによる空襲警報システムで万全の警戒をしなければいけないのだが、それを怠った。レーダーの使用は明け方午前4時から7時までの3時間だけで、最新装置に不慣れな兵隊が任務に当たった。海軍はどうかと言えば、太平洋艦隊最高司令部司令長官ハズバンド・E・キンメル(Husband E.Kimmel)は、日本が12月に入って真珠湾の港の様子を密かに観察している詳しい情報を部下から得ながら、この観察は暗号解読で分かったものだが、警戒態勢を全然取ろうしなかった。12月3日付けでワシントンの海軍省から日本の大使館が暗号書と暗号機を破壊しているという通信を受けても、ショート司令官には伝えなかった。日本が戦争を開始することを意味するのだが、何を思ったか、陸軍と連携する義務を怠っていた。そして、なおさら悪いことにワシントンの陸軍省と海軍省はその重要情報がハワイで共有されたと思い込んでいた。まあ、もう一言肝心なことを言わせてもらいたいが、ワシントンはハワイへの指令通信の結果を確認していないのだ。

   

暗智君―〈外部からの脅威がない場合の防衛措置〉を取るのは、明らかに間違いですね。状況認識が甘いということですね。ぼくが変に思うのは、SOPで三段階の警戒態勢に第1・第2・第3と番号を振っていながら、実際の通信ではどちらも番号を使わないということですよ。ワシントンは第1警戒を敷けと命令するべきだったし、ハワイは第1警戒を敷いたと答えるべきだった。誤解の恐れはない。そうしなかった理由は、規則で決められていなかったからです。これはSOPの順序がハワイで勝手に書き換えられていたことを考えれば、ラッキーだったでしょうか?通信では番号を使うと決めていれば、黙って一方的に順序を逆にするなんてことは起こらなかったはずです。ショート司令官は、番号はどうでもいいことだと軽く考えていたので、そうしたに違いありません。しかし、返電を送るとき、彼はSOPの書き換えをワシントンに報告していなかったことを想い出したはずです。非常事態だけに平静ではいられなかったでしょう。最高度の臨戦態勢を意味していた第1警戒は自分が順番を入れ換えたSOPでは最低限度の保安措置なので、記憶が混同して新しい第1警戒の内容を伝えたのではないか、と思いますね。

ナモネ氏―それでも、最高度の臨戦態勢を取る必要があると認識していたらその内容を忘れるわけがないだろうよ。〈総員戦闘配置につき、オアフ島(ホノルルと真珠湾がある)ならびに周辺の島々の陸軍施設を最大限防衛することを要求する〉というものだ。

暗智君―ええ、平常時なら忘れないと思いたいんですが、ね。引っかかるのは、特別戦争警報を受け取った他の基地は詳細に対策をワシントンに報告しているのに、ハワイの陸軍司令官はたったそれだけだということです。この理由は、戦争のイメージとは結びつきようがない楽園ハワイののどかさと明るさにあるかもしれません。狼狽しながら急いで返電を送ったけれども、時間が経つにつれて怠惰な気分に戻った。日本の攻撃はハワイでは昔話の〈狼〉だった、という事実にぼくは注目したいですね。126日ハワイの陸軍参謀会議で情報部長補佐官ビックネルが日本の暗号焼却情報打ち明けると、〈会議に集まった人々はあくびをしながら、その知らせを聞き流した。〉情報源が不明なので、〈信頼するべき情報〉と言っても相手にされなかった。

特派員―宣戦布告前の奇襲がありうること、それが真珠湾かもしれないということも予想されていたんだから、楽天的だよ。しかし、何と言っても、弁護士の著者が指摘するように真珠湾の悲劇はシステムの欠陥が引き起こしたものだ。彼が陸軍長官スチムソンの命令で事件を調査したとき、マニラを奪い返して間もないマッカーサー将軍(Douglas MacArtur)が硝煙の立ち昇る中で鋭く断言する、〈悪いのはシステムなんだ〉と。北アメリカ大陸はずっと平和だったから、合衆国は効率よく戦争できるシステムを作っていなかった。それが不運な連鎖を起こした。

半分半分放送局長―アメリカは開戦前から日本の外交秘密文書を〈パープル〉と名づけて、それを解読していた。民間の電信を使った暗号も解読していた。アメリカが開戦前掴めなかった決定的な情報は、太平洋の基地のどれが最初に奇襲攻撃を受けるか、というその一点だけなんだ。これには愕然としたよ。情報伝達管理システムが整備されていれば、パール・ハーバーの被害は少なかったはずだ。著者が指摘するとおり、真珠湾は高度情報化社会と核戦争時代のきわめて現代的な問題を提起している。127日のワシントン午前零時に戻ろう。日本政府は外交交渉打ち切りを通告する長いパープル暗号をその頃には首都の大使館に打ち終えていた。海軍省の翻訳班長クレーマーは疲労困憊していたので、それを朝まで上層部に配らなかった。陸軍省では情報局(G-2)の極東課補佐官デューゼンベリーはクレーマーの翻訳文書14部をマーシャル参謀長に配布しないで家に帰った。彼は外交官でも政治家でもないから、その〈通告〉が戦争を意味するという認識はなかった!すぐ配布するという規則もなかった!しかし、アメリカ国民は判断の甘さを許さない。それは個人の自由の範囲なんだ。配布していれば、13時間後の奇襲に備えることができたに違いないね。ハワイに伝えられたのは、攻撃の最中だった!

特派員―日曜日でなかったら、なあ。

[(オアフ島の山を回った)日本軍の奇襲攻撃は午前755分に始まり、945分まで続いた。最大級の戦艦3隻沈み、1隻が転覆、4隻が数か月戦列から離れるほどの被害を受けた。さらに軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、補助艦4隻が修理不能の被害を受けた。陸海軍の航空機402機のうち188機の戦闘機と爆撃機と哨戒機が失われた。海軍と海兵隊の死者は2086名、負傷者749名。陸軍の死者は194名、負傷者360名。日本軍の被害は死傷者100名以下、航空機360機のうち20機、小型潜水艦5隻。]

 (これがテレビ朝日の国内アンケートで20世紀の出来事のトップを占めた)

                                                

暗智君―情報部(G-2)のビックネルの証言は非常に興味深いね。126日土曜日の夕方5時近くFBI支部長のシバースが電話の盗聴記録を手渡した。現地の日本人医師毛利と東京の新聞記者らしい男が交わした話だ。〈東京側の相手は、艦隊、水兵、探照灯、飛行機、気象状況のことを聞いていたし、「ハイビスカス」や「ポインセチア」のことも聞いていた〉ビックネルはこれには何か重要な意味があると考えた。〈「現在は一年中で最も花の少ない季節ですが、ハイビスカスとポインセチアは咲いています。」〉とは何か?しかし、ショート司令官に伝えると、驚いた様子もなく、ビックネルを〈神経過敏〉だと言う。7日の朝、G-2のベテラン補佐官は真珠湾で燃え上がる爆弾の花を眺めながら、ハイビスカスとポインセチアという怪しい言葉を想い出していた。日本が知らなかったレーダーの威力を過信していたね。

特派員―そのイメージについて話したのは194511月から行なわれた真珠湾の真相究明のための議会の委員会でだけれど、それを聞いて会場が静まり返った、と付け加えたいね。

放送局長―アメリカの伝統的な孤立主義には根強いものがあるんだよ。太平洋とヨーロッパにおける世界戦争に参加する羽目になったんだから、麗しのハワイに咲いた花を忘れるわけがない。

特派員―ルーズヴェルト大統領やチャーチル首相の陰謀説、つまりアメリカ国民を参戦させるために真珠湾を日本に攻撃させたという陰謀説が出たのは、そういう心理的背景もあったからでしょうね。本の中でヘンリーはさりげなく書いてる、一般国民は挨拶するとき真珠湾の日にどこにいたか相手に尋ねるようになった、と。奇妙なことに、日本・ドイツ・イタリーの枢軸国が悲劇を成功させるために何らかの陰謀を企んだのではないか、という問題意識はない。例えば、日本の大艦隊が千島列島から北太平洋を通って真珠湾に向かったのが日本時間の1126日、それがハワイに着くまで発見されなかったというのはちょっと信じられないミステリーですよ。

放送局長―プライドだよ。君。愚かさは真珠湾だけでたくさんだ、と思うのさ。しかし、君が馬鹿な疑問を漏らしたから付き合うが、ね、ホノルルの日本領事館に海軍が仕掛けていた盗聴機が奇襲の5日前電話会社の作業員にばれた出来事、あれについて陸軍中佐(著者)は偶発的なことのように書いてる。こっちはドラマチックに推理してしまうね。ハワイには当時人口の5割を占める16万人の日系人と4万人の在留日本人がいた、という事実に目をやると、意味が少しずれ始めるんじゃないか?

ナモネ氏―だから、425分には戒厳令が敷かれた。日系人は収容所にぶち込まれた。夜中には本土から来た偵察機と爆撃機を7機撃墜してしまった2。翌年、ヒッチコック(A.Hithcock)が《サボーター(逃走迷路)》という映画を作ってる。破壊活動者という意味で、仕事をさぼるなどといった生易しいものじゃない。テロリストなのだ。航空機製造工場の火災から始まるんだが、濡れ衣を着せられた工員が真犯人を追うと、派手にマスコミを飾ってる上流階級の富豪夫人に行き当たる。慈善パーティをやってる大邸宅にナチス協力組織があるのだよ。ナンバー2はそこで悠然と、工員に国家社会主義の哲学を披露する。民主主義なんて効率が悪すぎる、と。秘密組織の計画は、巨大ダムと進水間近の戦艦の破壊だ。

暗智君―ぞっとしたのは、ロサンゼルスの電力の70%を供給するダムを車から遠望して、テロリストがただ、自分の可愛い子どもの話をすることですね。

ナモネ氏―市民を犠牲にするそんな破壊活動も考えられていたとは想像もしなかった。大変な映画だと思ったね。結局、造船所から出る戦艦の爆破だけで終わるが。

放送局長―ニュース映画社の連中が破壊工作員だったというところが愉快でしたね。あの映画の出来事から戦争中の何らかの事実の裏を類推するとしたら、ヒッチコック監督は何と言うかな?

暗智君―事実は映画よりも奇怪である。

ハセ―時事通信社の石井正産業部長がほめるような卑怯さの見本だよ。

                

ハセ―ところで、新聞記者らしい男がサイド・ビジネスで諜報活動をしていたという話で、ぼくは南京虐殺のときの朝日新聞記者の回想談を想い出したよ3。その支局員は、37年日本軍の南京入城のパレードが始まる前日にその記事を東京に書き送り、天気の情報だけ当日追加したというんだ。その心理が分からない。検閲に対する抵抗のつもりなのか?あんな卑屈な生き方はしたくないな。

特派員―ああいう回顧談を真に受ける必要はないですよ。終戦後〈国民と共に起たん〉と朝日新聞は誓ったけれど、国民と一緒なのは戦前と変わらない。協力者は横手市の新聞発行人むのたけじのように責任を取って会社を辞めるのが正解だった。連合軍はジャーナリストに甘かった。廃墟に来た軍人にはセンチメンタリスムがあったね。

ハセ―あそこも東大出が多かったんだから、政治家や官僚と同じく自分だけは生き延びようとする。アメリカの議会だったら、厳しかったんじゃないか?パール・ハーバーの問題も、事実が揃うに連れて感情的党派的な議論が消えて、かなり公平な客観的な結論を出してる。その民主的な成長は少し感動的だ。そして、アメリカ政府は戦後も日本の外交暗号の解読を秘密にしていたが、議会でブルースター議員が公表したということも、ね。この洒落た名前はどこかで聞いたような気がしないか4?

特派員―横浜の廃墟にあったバーですよ!日本の国会は見習って中国侵略と太平洋戦争のさまざまな問題を厳しく裁くべきでしたね。ジャーナリズムも。しかし、それは自分の何かを裁くことだから、敗戦後の日本人はごまかすしかなかったんでしょう。

放送局長―そう。おれがこの本を読んで確実に理解したのは、アメリカがパール・ハーバー問題を60年間生きてきたということだよ。何が悪かったのか?どうすればあのような悲劇を防ぐことができるのか?インター・ネットも、そこから必然的に出てきた。《情報の正確な共有》とリンクはウィンドウズの重要なテーマなんだ。

ハセ―そのとおりだ。しかし、防衛システムと兵器を完全にすれば、それだけで2度とあんな悲劇は起きないと信じられるか?無理だな。

放送局長―やはり人間が問題だよ。どうすれば、理性的になれるのか?

   

1 Pearl Harbor : Final Judgement by Henry C.Clausen and Bruce Lee   1992  

  12月6日の東京発の電文の最終部分は下記に。

2 PEARL HARBOR THE TRUTH : 監督 Michael Bay

  話題の映画《パール・ハーバー》の監督がドキュメンタリーも作った。

3 毎日新聞の国際的ジャーナリスト大森実の《戦後秘史》の中にあったと思うが

4 一種の小説 : 長谷川喜作 著

 

 

この問題にズーム・インすると

▼ ヒッチコックの映画《逃走迷路》の広告サイン

▼ この映画制作の動機とニューヨークでの戦艦爆破テロ

▼ 《真珠湾の裏切り》に書かれた真相

▼ 奇襲前夜に関する朝日新聞ニューヨーク特派員の証言

▼ 〈本物の戦争です〉とホノルルのラジオは叫んだ

▼ 防毒マスクの準備を

▼ 戦後アメリカ市民の防衛本能と銃社会

▼ D-Day ; キャロルを演じたのラレイン・デイ

▼ 12.8---パットナム大佐とテラサキの再会

▼ パール・ハーバーという鏡

▼ パットナム大佐の行方

▼ 高松宮日記メモ; 開戦前に皇太后のお言葉〈こじれてもいいのでは〉

▼ List 3 パール・ハーバー ストーリー

▼ List 5 2次世界大戦

 

▼ 職務怠慢という名の謀略

 

 

2 謀略のパール・ハーバー

 

 

 

 


 

 

パープル暗号による外務省電文

 

東京発                     ワシントン宛

1941年12月6日

(パープル暗号)、第902号(14部のうちの第14)

(原注/この第14部を処理する無線局への指示には「きわめて重要」という英語の平文がある)

7.米国政府の意図は、英国その他の諸国とはかり、東アジアに新秩序を築くくことによって平和を確立しようとする日本の努力を妨げ、とくに日本と中国を交戦状態に置くことにより英米の権利と利益を維持しようとすることでであるのは明らかであり、かような米国の意図は現交渉を通じて明確に打ち出されてきた。ここに、日米関係を調整し、米国政府との協力により太平洋地域の平和の維持と促進をはかりたいとの日本の真剣なる願いはついに失われれた。

遺憾ながら日本政府は、米国政府の態度にかんがみて、今後、交渉をつづけても合意に達する見込みはないと考えざるをえないことを、米国政府に対し、ここに通告する次第である。

 

原注/この電文が翻訳され、ワシントンに通知された時刻が50年にわたる論争のもとになってきた。陸軍の証人はこの電文の写しを受け取ったのは12月6日の深夜であったと主張している。そしてその夜、14部のこの最後の部分をデューゼンベリー大佐はマーシャル大佐に届けなかったのである。

 

 

 

 

 Atelier Half and Half