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 城 ノブ   明治5年(1872)10月18日〜昭和34年(1959)12月20日
 大正〜昭和期の社会事業家。

 愛媛県温泉郡川上村に医師・城譲三の長女として生まれる。父・城譲三はシーボルト,P.F.J.の弟子のひとりであった。

 自宅から12キロある松山女学校( 現在松山東雲学園)に徒歩通学を行い、かたわら漢学塾でも学びを深め、明治23年松山女学校を卒業した。

 デュークス,D.A.から受洗した。しかし、そのため父から勘当された。家を出て、明治26年(1893)横浜の聖経女学校神学科に入学した。卒業後、弘前女学校教師、養老院勤務のかたわら伝道活動を行った。

 未確認であるが、中田重治の先妻・かつ子と何らかの接触があったかもしれない。かつ子は、ノブが卒業した神学校に学び、母教会である弘前教会の伝道師として赴任し、そこで中田重治と結婚したのである。弘前女学校と関わりのある弘前教会であることから、可能性として考えられそうである。

 ノブは、明治36年(1903)、社会主義研究会メンバーの伊藤智二郎と結婚したが、夫が追われて海外へ脱出したため入籍しないまま実家に戻り、長男一男を出産した。

 息子・一男は、成長し、次の履歴の生涯を歩いた。
 大正14年(1925)−昭和3年(1928)カナダ・トロント大学獣医科大学にて病理・細菌学を専攻。6年(1931)−38年(1963)兵庫県および芦屋市に奉職。34年(1959)−平成5年(1994)神戸婦人同情会第二代理事長。昭和35(1960)-62年(1987)近畿養護施設協議会等の理事長、会長、副会長、顧問を歴任。『マザー・オブ・マザーズ』を平成7年(1995)に出版した。

 ノブは、大正初めの不況時代に農村の多くの娘が売られ、あるいは転落していくさまをみかねて、大正5年(1916)に神戸婦人同情会を開設した。そのための施設として神戸市下山手通りに小さな家を借りた。不幸な女性を保護し、職を世話したり、遊郭で苦しんでいる女性たちの救済にあたった。活動中、暴力団に立ち向かって暴行を受け、聴力を失い足にも怪我を負うなどの被害を受ける羽目に陥った。

 女性の投身自殺の多い須磨一の谷海岸に「一寸待て」の大きな看板を掲げて「死なねばならぬ事情のある方は一度来てください。ご相談にあづかります」と大書した。以来、相談に来たものは5万余名、収容者7000名以上の世話をした。

 さらに灘区青谷町に神戸婦人同情会第一母子寮を作り、崩壊家庭の母子に住いを提供した。そして再起を手助けした。保育園青谷愛児園、児童養護施設子供の家のほか、兵庫県尼崎市に第二母子寮、園田愛育園を設立した。昭和20年(1945)空襲で施設が全焼したが、2年後に青谷に母子寮と保育所を再建した。母子保護法施行後2年、母子心中は減少したが、戦時下で出征兵士や戦死者の遺家族など、母子寮を必要とする人が増えていた。

 その間、ノブは日本基督教婦人矯風会神戸支部長をつとめた。ノブの神戸婦人同情会は直接は日本基督教婦人矯風会の事業ではないが、ノブは支部長として、また山陰部会長としてたびたび支部を巡回して会員を育て、林歌子十時菊子などと並ぶ西の重鎮でもあった。鳥取に矯風会の支部が発足したのは大正11年(1922)11月25日であるが、この日を迎えるまでにノブは何度も足を運んだのだった。

 鳥取に初めて矯風会の働きについて講演を行ったのは、明治38年(1905)1月15日、土木禁酒矯風会会長奥江清之助だった。彼は大倉組(現在の大成建設)に勤務しながら、秋吉台の聖者・本間俊平を仙台で信仰に導き、また座古愛子の霊的父親として信仰上のよき相談相手になった。なお、奥江清之助は明治35年(1902)に鳥取教会に転入会している。

 救世軍の山室軍平も大正4年(1916)に青年学生大会講師として来鳥した。そして、大正9年(1920)5月16日、ノブが神戸から神戸基督教婦人会会長として来鳥し、数日間滞在して精力的に活動した。翌日、遷喬小学校で行われた講演会は500〜600名とも言われる満場立錐の余地のない盛況だった。さらに翌日も女学校生徒250名余りに講演をして、20日の夜汽車で神戸へ戻った。

 大正10年(1921)5月3日夜、来鳥して講演をして、翌日は求道者との開合を持ち、11時の汽車で倉吉へ向かい、午後1時過ぎに北条町へ到着後、「生命の保護」と題して講演を行った。さらに5日には2度にわたって講演を行い、夜は8時から倉吉組合教会で講演を行った。しかも、そのとき、矯風会倉吉支部設置の相談を受けた。さらに6日、7日には9回の集会や講演が続いた。8日には但馬浜坂町で講演を済ませて夜半1時の汽車で神戸の途についた。

 大正11年(1922)6月には松江、米子、倉吉、山石を1週間かけて巡回し、その結果6月24日に米子支部が発足した。その5ヵ月後の鳥取支部が発足したのだった。

 大正14年には秋田楢山教会にも出向いた。この教会には早川かいが夫の早川祐吉とともに教会員として在籍して、教会内外で活躍していた。

 大正15年(1926)に鳥取で公娼問題講演会を、ノブは久布白落実とともに行った。
 この年、廃娼運動推進の国民委員会が発会した。ノブはもちろんのこと久布白落実林歌子らも顔を揃えた。新聞紙上では、面白かったのは女子職業学校を代表して列席した鳩山春子女史が、初めに委員に氏名されるや、「とても妾等の片手間仕事では」と敬遠して座を逃げるように立って帰ったことだった、とある。それほど、常人では容易く立ち向かうには大仕事であることを逆説的に説明してくれた記事であるといえよう。

 なおなお、ノブは疲れを知らない人のように社会のために奔走した。教会生活では、神戸栄光教会員として過ごした。教会において大正11年(1922)、新会堂建築を行うにあたり、ノブは会堂建築委員(幹事)に指名された。昭和11年(1936)教会創立満50年の祝賀会の席上、ノブは信仰生活40年以上の教会員のひとりのなかに加えられた。

 昭和15年(1940)に神戸市基督教連盟主催の皇紀2600年信徒大会においてノブは、神戸栄光教会員の9名の一人として受洗満50年を祝って記念品を受けた。ノブが経営していた愛児園の日曜学校を、昭和26年(1951)、神戸栄光教会の青谷分校となった。

 昭和31年(1956)9月16日神戸栄光教会満70年祝賀式で、ノブは信仰生活50年以上の27名の一人として最初に掲載された。そして、聖書協会の好意による記念の文字および個人の氏名を金文字で表紙に表した小型上製の新旧約聖書が贈られた。

 昭和34年(1959)12月20日、クリスマス聖日に88歳の生涯を閉じた。28日には河上丈太郎が葬儀委員長として神戸婦人同情会葬として盛大な葬儀が神戸栄光教会で執り行われた。墓は芦屋市立霊園にある。

 キリストの忠実な働き人として生涯を閉じたノブは、自分を前に押し出したわけではないが、今なおノブを忘れずに語り継がれ、神の愛とキリストの忍耐を証している。その一例が、日本キリスト教会大阪北教会の聖日礼拝の説教のなかに見出される。これからも、語り継がれ神の栄光を照り輝かせることだろう。
出 典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』 『マザー・オブ・マザーズ』 『鳥取教会百年史U』 『神戸栄光教会七十年史』 『秋田楢山教会百年史』

子どもの家 http://www.kodomono-ie.org/siset.html
http://homepage1.nifty.com/kita-kyokai/sekkyou/2002/seijitsu/020714.htm
松山東雲中学高等学校 http://www.shinonome.ac.jp/shinonome/03chuko/ck_aisatsu.htm

弘前学院大学 http://www.hirogaku-u.ac.jp/
日本基督教団弘前教会 http://www.hirosaki.co.jp/hirosaki/kankousisetu/youkan/kirisuto/