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 河上 末子     明治25年(1892)9月25日〜昭和51年(1976)4月13日
 社会党委員長・河上丈太郎の妻。末子ともいうので、ここでは文中のわかりやすさを考慮して末子とする。

<生い立ち> 
 日本メソジスト教会二代監督の牧師・平岩愃保の四女として東京に生まれた。のち、きょうだいは代議士・内ヶ崎作三郎夫人、早稲田大学教授・野々村戒三夫人となった。そして、末子は代議士・河上丈太郎の妻となる。

 末子は、生後三ヶ月で幼児洗礼を受けた。
 牧師・平岩愃保は、現在の日本基督教団阿佐ヶ谷教会の創立者である。末子の夫・丈太郎の妹・朝子は京都に嫁いだが、夫が死去したあと、阿佐ヶ谷教会に転会して大宮溥牧師から末娘・澪子とともに昭和59年(1984)自宅で受洗した。

 末子は山梨英和女学院東洋英和女学院に学んだ。
 19歳の時、急性盲腸炎を患い、その危機を脱した時の感激から社会の病める人々への奉仕を決意した。ロンドンのセント・トーマス病院の看護学校に入学手続きをしたが、リウマチのために断念して帰国した。

 26歳の夏、 神戸女学院のYWCA修養会に河井道に従って出席した。このとき、姉から河上丈太郎の話を聞かされ、文通が始まった。一度も会わずに末子は丈太郎の思想に傾倒してしまい、婚約した。大正8年(1919)2月24日青山学院ハリス館で結婚式を行った。

 河上丈太郎は、明治22年(1889)1月3日、東京港区愛宕山の麓に材木商を営む河上新太郎・かねの長男として誕生した。丈太郎の純情なそして謙虚な態度は父新太郎に負うところが大きいと言われている。

 末子の舅になる新太郎は、大正末期まであったバプテスト教会の熱心な教会員で、毎早朝、重箱ほどの大きな聖書を木綿風呂敷に包んで約1キロほどある芝公園の一角の木立のなかで約1時間余り聖書を読み祈りをすることを長年の日課としていた。新太郎には、信仰上の友人に留岡幸助本間俊平がいた。霊南坂教会への夜の暗い坂道に外灯をともしたのは新太郎だといわれている。

 昭和3年(1928)丈太郎は代議士に立候補して当選した。
 丈太郎と末子は銀座教会の役員をつとめた。丈太郎は昭和23年(1948)〜38年(1963)、末子は昭和25年(1949)〜28年(1953)、30年(1955)〜35年(1960)と、記録されている。

 同35年(1960)安保闘争の最中、丈太郎は右翼の暴漢に襲われ重傷を負った。その翌年、丈太郎は社会党中央執行委員長に就任し、5選されたが、40年(1965)1月11日、気分の不快を押して四国遊説に旅立ち、途中で発病した。直ちに関東中央病院に入院した。くも膜下出血と診断され、病養につとめたが、12月3日に永眠した。

 末子は丈太郎に贈られた供託金で国際親善の会を設立した。43年(1968)5月アメリカン・マザース・コミッティから日本の母として受賞された。49年(1974)女婿・伊集院方で療養生活に入り、同所で死去した。83歳だった。

 『銀座教会九十年史』には、召天者名簿一覧に丈太郎・末子の名がそれぞれ掲載されている。
 著書に『むら雲のかなたに』がある。

<やりかけ>
出 典 『女性人名』 『植村 4』 『銀座教会九十年史』 『阿佐ヶ谷教会』
山梨英和女学院 http://www.y-eiwa.ed.jp/
東洋英和女学院 http://www.toyoeiwa.ac.jp/index2.html
神戸女学院 http://www.kobe-c.ac.jp/
わたしたちの教会 http://www.mars.dti.ne.jp/~ikuya/outline.htm
日本基督教団阿佐ヶ谷教会 http://www5.ocn.ne.jp/~asgych/

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