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 林 歌子          元治元年(1864)12月14日〜昭和21年(1946)3月24日
 明治から昭和期にかけての社会事業家。孤児の母として、また廃娼運動、禁酒運動の推進に尽力した。

<生い立ち>
 歌子は越前国大野に士族林長蔵の長女として、元治元年12月14日に生まれた。3歳にして生母を失った。父は再婚したが間なく離婚し三度目の結婚をした。歌子は長女として父親の豊かな愛情のなかで幸せな幼児期を過ごした。

 明治10年(1877)5月、福井女子師範学校が設立されると、識見高い父は歌子を女子師範学校に送った。11年、明治天皇北陸ご巡幸の際、二人の優等生が選ばれて御前講義をしたが、その一人は歌子だった。

 明治13年7月、16歳の歌子は福井女子師範学校を卒業し、大野町有終小学校教師として勤務した。20歳で従兄弟である小学校教師と結婚し一児の母となったが、相互に長男長女で家督相続の問題がこじれ離婚をした。生後50日で生別した愛児は消化不良で間もなく夭折した。

 歌子はいっそう学問を修めて独立して生きようと決心して、叔母、従姉妹ら3人とともに、明治18年(1885)上京した。22歳の秋だった。翌年から築地立教女学校の教師として採用され、和漢、数学、のちに理科まで教えることになった。やがて、立教女学校創立者のM・ウィリアムズ監督が関係する神田基督教会に出席するようになり、監督から明治20年6月に受した。

 この教会で小橋勝之助と弟・実之助も同じころM・ウィリアムズ監督から受洗した。
 小橋勝之助(文久3年生まれ)は兵庫県播州赤穂の出身で、神戸医学校で3年間の修学後、東京帝国大学医学部に進学すべく明治15年8月弟2人を伴って上京した。医学部入学に備えて語学の勉強をしていたが、幼少のころからの飲酒の習慣にたたられて心臓や肺が病魔に冒されてしまった。

 勝之助は明治19年(1886)のクリスマスの夜、ふとしたきっかけでキリスト教に触れ、その集団に引き付けられて神田基督教会に出席するようになり、明けて20年5月に受洗したのだった。勝之助はM・ウィリアムズ監督に深く感化を受け、医学を投げ打って生涯を貧しいもの、弱い者のために献身することにした。

 弟・実之助は10歳年上の兄を信頼し尊敬していた。兄と同じように受洗し行動を同じようにした。明治21年2月に小橋兄弟が母の病気のために郷里に帰るまでの間、立教女学校の歌子のグループと小橋兄弟らのグループは、日曜日の礼拝や水曜日の祈祷会に欠かさず出席し、信仰に連なる兄弟姉妹としてともに祈り、信仰による深い信頼と尊敬を抱いての交流が続いた。

 母の葬儀を済ませた勝之助は瓜生の村でキリスト教の伝道を行うが、親類や村人から狂人扱いをされた。それでも、勝之助は熱心に伝道をし、自らの経験をとおして酒害を説き、ついには一切の私財を投じて孤児のための「博愛社」を兵庫県赤穂郡矢野村瓜生に創立した。明治23年(1890)1月1日で、石井十次が設立した岡山孤児院から2年後のことだった。

 当時の勝之助が考えていた事業は、博愛社文庫、慈善的普通学校、貧民学校、貧民施療所、博愛雑誌、感化院、孤児院などであった。以後、岡山孤児院の石井十次と事業提携をしたり、濃尾地震の罹災児の救済にあたったり、病身で東奔西走して薄幸の子らの養育に努めた。

 しかし、病気はひどくなるばかりで、余命いくばくもない状態となった。このことを悟った勝之助は、神田基督教会時代にともに祈り、ともに信仰に励んだ信仰の友、林歌子に助けを求めた。

 林歌子は、小橋勝之助の二度にわたる懇請に信仰によって決意を固めた。熟慮熱祷の末、博愛社の事業に献身し孤児の母となる承諾の手紙を書き送り、立教女学校教師としての身辺整理を始めたのであった。

 歌子の父は「嫁入りするでもなく女中に行くのか」と猛反対したが、誠実に説得して明治25年8月29日、小橋兄弟の待つ瓜生の博愛社に到着した。歌子29歳の夏だった。

 これまでのチョーク片手の教鞭生活から早朝からの水汲み、飯炊き、お菜づくり、洗濯、ボロ繕い、看病といった労働の毎日に変わった。お菜作りのとき、不慣れなために後々まで語り草となる指を切り「血染めの切干し」をつくってしまったこともある。

 日に日に体力がなくなる勝之助であったが、10年かかって実現すると思っていたことが歌子の着任で3年で実現したことに対して枕辺で歌子に深く感謝し、29歳2ヶ月で地上の歩みを終えた。明治26年3月12日であった。

 勝之助を失った弟・実之助と歌子に対して親戚たちはにわかに表面きって反対し、迫害が大きくなった。四面楚歌のなか追放運動まで起きたため、勝之助の死後1年目に全財産を兄の良之助にわたし、わずか90円を手にして大阪の富豪阿波松之助を頼って上阪した。

 大阪府大仁村の阿波家の門長屋で博愛社は再び活動を始めた。朝の礼拝、午前中の授業、午後の作業を瓜生時代のとおりに行った。上阪時代に6人であった世帯が13人になり、90円を使い果たし、食料も思うように買えない苦しみの中、歌子は夜学の教師をして子どもたちのためにひき割り麦を買った。麦がなくなり芋を食べた。食うや食わずの日が一月以上も続き、実之助と歌子は涙ながらに神に祈った。

 祈っていたある夜、突然の来客があって寄付金が届けられ、危機を脱した。子ども立ち退かずも増え、授業や作業に調子がのってきて門長屋日一棟だけの生活に不自由を感じていたころ、歌子が立教女学校時代に世話をした娘の父親で、長崎の実業家・帆足義方が訪ねてきて博愛社の実情を知り、また歌子の確固たる信仰に動かされて500円の寄付を申し出た。

 帆足の寄付を元手として土地を求め、M・ウィリアムズ監督寄付の家屋を建てて、大阪府東成郡神津村(現在、十三と呼ばれる場所)に新しい博愛社を完成させた。明治32年2月1日、勝之助創立後、10年目のことであった。

 苦しい博愛社も軌道になんとか乗ってきたので、歌子は27歳になった施設長の実之助に、妻であり孤児の母となりうる女性を妻に迎えるべく捜し求めた。 プール女学校裁縫教師の山本かつえに出会い、祈りつつ、かつえを実之助の妻として望んだ。

 明治37年4月7日、大阪川口基督教会でめでたく結婚式をあげたかつえの花嫁衣裳は自家手織りの木綿の紋付きであったが、持参したものは実之助への洋服タンスと子どもたちにオルガン一台、子どもたちの着物とハカマが76人分、ふとん76人分、そして蚊帳11帳であった。これを見た歌子は、自分の探し当てた花嫁が最適な人であったことを再確認して神に深く感謝した。

 実之助とかつえ夫妻が十分に力を出し切って博愛社を運営できることを見届けた歌子は、かねてからの懸案であった渡米を決行した。これには、二つの理由が秘められていた。ひとつは博愛社のための資金集め、もうひとつはかつえが自由に手腕を発揮できるようにとの配慮であった。

 アメリカから戻った歌子は集めた15,000円をそっくり実之助夫妻に手渡した。この資金が博愛社第二期拡張へ弾みをつけた。

 歌子はかねて立教女学校教師時代に矢島楫子を知り、発足間もない東京婦人矯風会会員になっていたが、博愛社に来てからは、時間的ゆとりがなく実際的活動をすることがなかった。

 けれども博愛社が軌道に乗り、社団法人としての組織づくりもできたころの明治32年(1899)、歌子は婦人矯風会大阪支部を設立して支部長としての責任をとっていたが、博愛社にかつえを迎えてからは全く安心して矯風会活動に没頭するようになった。

 矯風会の綱領は「平和」「純潔」「禁酒」の三つである。はじめ歌子は禁酒に力を傾倒した。酒害に苦しんだ勝之助が自分の心臓を残して酒害を訴えようとした遺志を実践しようと考えたからである。

 そのころの日本は日露戦争後の好況で、都会に憧れて出てきて転落する女子、あるいは貧しさのゆえに淪落の淵に沈んでいく婦人が多くいるのを見て、そのような婦人のために立ち上がった。

 明治40年5月、大阪中之島に矯風会大阪支部付属の婦人ホームを開設し、婦人の保護救済と職業紹介にあたった。以来、歌子は婦人ホームに住み、矯風会と婦人ホームの仕事に専念するが、土曜日の夜になるとお菓子のおみやげをもって博愛社に里帰りして一泊し、日曜礼拝に出て一日子どもたちの遊び相手となって過ごす生活が晩年までつづいた。

 明治42年、大阪北部地区一帯を焼失する大火があり、曽根崎遊廓も灰になった。これを機会に大阪婦人矯風会の遊廓反対運動は全市民の運動となり、翌43年に曽根崎遊廓は廃止された。この背後に歌子の大きな努力があった。

 明治45年(1912)1月16日、大阪南区の難波新地の大半が焼失したとき、歌子は、廓清会本部に「難波新地遊郭は今盛んにもてつつあるからすぐ廃娼運動の応援弁士をよこせ」と打電した。翌17日、土佐堀青年会館に有志35名が集まり、救護と廃娼を分担して活動を開始した。東京の矯風会本部は19日午後3時の臨時常置委員会で矢嶋楫子、守屋東の西下を決め、グレゴリーと山室軍平を加えた4人で大阪に発った。歌子の熱意は、多くの人々を動かした。20日、中之島公会堂で大演説会を開き来会者3,500名、男性陣は知事をはじめ有力者の訪問があり、大成功を成した。

 明治44年、吉原遊廓焼失を機会に東京にも公娼全廃運動が起こり、廃娼運動を中心として矯風会の姉妹団体の廓清会が発足した。廓清会は月刊誌『廓清』を発行して、公娼廃止を世論に訴えたが、発行部数は1500部で最低1000部は売れなければ採算がとれなかった。歌子は毎月1000部を責任もって購入し読者を確保し続けた。戦時中の物資不足により『廓清』が発行不能になる昭和18年まで、歌子は読者を募る努力を続けた。

 大正3年(1914)婦人会矯風会主催の演説会が神戸教会にて行われ、歌子が廃娼運動について講演した。
 大正5年に大阪の飛田遊廓新設反対運動がおこったが、歌子はその中心となった。一年余りの間の歌子の活躍はめざましいものであった。東京の矢島楫子会頭と林歌子支部長を先頭に100余名の母親たちが大阪府庁にデモ行進したり、宮中への直訴まで試みた。

 が、ことごとく失敗した。失敗の経験から婦人に参政権のない弱さを痛感した。婦人参政権運動は矯風会の主要目標のひとつとなり、久布白落実がこの方面に進出していくこととなる。

 久布白落実が婦人矯風会の総幹事となって矯風会活動をしていた大正9年(1920)、久布白落実の夫・直勝牧師が3人の子どもと新築したばかりの東京市民教会を落実の手に残して急逝した。そのため落実は建築費の借金返済に苦慮していた。

 久布白落実の苦しみを知った歌子は「私は大阪で部屋もあり食もある。月給は小遣いや。それで、あなたの借金が済むまで私の月給をあげましょう」と申し出て、大阪婦人矯風会から活動費として支給されていた25円を毎月同じ日に落実に送り続けた。

 久布白落実は会堂建築費を主婦の友社石川武美社長から借金していたが、歌子から送金される25円を石川社長に返済し続けた。石川武美は大分県出身の『主婦之友』創業者である。宇佐中学校を中退して上京して同文館に勤務した。二宮尊徳の「荒蕪の力で荒蕪を拓く」から勤労節倹・自主独立の精神を学んだ。本郷(弓町本郷)教会に通い、明治40年(1907)海老名弾正から受洗した。『婦人之友』や『婦女界』の編集を経て、大正6年(1917)3月に『主婦之友』を創刊した。家庭生活に関する実用的な記事、家庭内のさまざまな悩み・告白など読者の身近な開示を掲載し、3年後には当時の日本雑誌界第一位の発行部数を誇るまでに成長した。戦後の昭和23年(1948)公職追放を受けたが2年後には『主婦之友』の経営に復帰。婦人のための図書館「お茶の水図書館」を設立(昭和22年)した。

 石川武美は、確実に返済されることにより久布白落実を信用し、落実のいる矯風会をも信用し、矯風会に対して経済的に応援をするようになった。歌子が送金を続けたのは大正9年から13年までのことであった。

 大正8年(1919)、歌子は日本婦人の醜業問題で視察のためにシベリアに、大正11年(1922)には万国基督教婦人矯風会大会に、翌12年には関東大震災の被災者救済を行うなど大車輪の活躍だった。

 さらに、歌子は、大正11年5月15日、廓清会とともに大阪中之島公会堂で住吉公園遊廓取り消しのための大演説会を開き、賀川豊彦を講師に招いた。この大演説会は、大阪府が松島九郎右衛門町の電車どおりに面していた遊廓を子どもの遊び場である住吉公園の隣接地に移転させ、6万坪の遊廓を建設すると公布したことに反対するためであった。矯風会と廓清会の粘り強い運動により「母の同盟」が結成されて2万人の署名が集められ、その結果、建設規模を1万坪に縮小させることができた。

 婦人矯風会は、矢嶋楫子の米寿の年に合わせて88番目の高知支部を設立した。この生みの親は歌子であった。支部創立と同時に学生ホームの建設が始まり、土地の提供を吉田茂首相の実兄竹内明太郎から受けた。学生ホーム以外にも無料診療所の建設にとりかかるなど、積極的に活動した。その中心的人物として歌子は機会を待ちつつ祈って田岡寿子を支部長とした。歌子は表面に出るよりはサポーターとして尽力した。

 昭和4年はロンドン軍縮会議に軍縮実現の請願書を持参して日本代表として渡英した。
 昭和13年(1938)、矯風会第三代会頭に就任したが、戦争拡大の一歩をたどる時勢であり、矯風会活動は困難な時代であった。そのなかで中国にわたり北京で医療セツルメント、孤児救済事業を行った。
 北京では清水安三の案内で天橋を視察できた。この出会いにより歌子は、婦人矯風会や東洋婦人会を動かして、天橋愛隣館建設募金を行い、会館建築や経営を清水安三に委ねたのだった。

 同年7月16日には秋田メソジスト教会(現在の秋田楢山教会)において「母心の活動」と題して講演を行った。会場は女子師範生80名をはじめ200名余りの盛会で、席上献金6円40銭が清水安三管理の北京のセツルメント事業に送金された。

 己の為に求めることなく神と人の為に与え続けた歌子は、昭和21年3月23日、博愛社から贈られた憩いの家で81歳の生涯を閉じた。


 歌子とであったことで禁酒運動に取り組むようになった医師・松浦有志太郎がいる。彼は、禁煙、玄米食活動にも熱心だったという。
出 典 『林 歌子』 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『社会事業』 『矯風会百年史』 『北京清譚』 『秋田楢山教会百年史』

神戸教会年表 http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/contents/nenpyou.html
主婦之友社のヒストリー http://www.shufunotomo.co.jp/company/prof2000/history.html
キリスト教新聞社 http://www.kirishin.com/index.html
立教女学院短期大学 http://www.rjt.ac.jp/
プール学院 http://www.k-doumei.or.jp/member/pool.htm
近代肥後異風者伝 http://www.kumanichi.co.jp/ifuusya/ifuusya35.html

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