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 久布白 落実(くぶしろ おちみ)       明治15年(1882)12月16日〜昭和47年(1972)10月23日
 大正〜昭和期の社会(婦人)運動家。

 父・大久保眞次郎、母・音羽の長女として熊本県鹿本郡に生まれた。父は牧師であった。
 大伯母に矢嶋楫子、伯父に徳富蘇峰、徳富蘆花がいる。

 前橋共愛女学校予科を経て、女子学院に進んだ。在学中に牛込払方教会で信仰告白をした。明治36年(1903)東京麹町の女子学院高等科を卒業した。

 翌年、両親のいるアメリカに渡り、太平洋神学校に入学した。

 43年(1910)久布白直勝と結婚した。シアトルに住み、同地で男児二人を生んだ。
 滞米中、日本人移民の実状をみて廃娼問題に目覚めた。

 大正2年(1923)大阪教会の招きに応じて帰国した。主任牧師は宮川経輝だった。その副牧師として、希望と夢に胸を膨らませての活躍も半年が経ったとき、夫の直勝は病んで休養を命じられた。加えて、落実は第三子をみごもっており産み月が近かった。親戚はもとより教会は、若い牧師の赴任に喜んだのもつかの間、困惑したであろう。幸いにして寝込むほどではなかったので、療養を兼ねて、翌3年、高松7番丁教会に異動が決まり、高松で2年間を過ごした。そこで三男が誕生した。

 高松には直勝の母も一緒だったので、孫の世話をよくしてくれた。あるとき、散歩の途中で、もと写真館が月10円で貸家募集をしていることに目をつけ、交渉の結果、ここを教会堂として改修し、教会活動を盛んに行った。教勢も伸びた。とくに高等師範学校の生徒たちの出席が増えた。恐らく、アメリカ帰りの直勝の説教が魅力的だったのであろう。

 ところが、思いがけないことに、同5年(1930)、落実に東京の基督教婦人矯風会から誘いがあり、高松の教会を後任の栗原陽太郎牧師に委ねて、家族をあげて上京した。

 栗原陽太郎は、明治16年(1883)に群馬県渋川町に生まれ、若くして内村鑑三の『聖書之友』に触れて信仰に目覚めた。18歳のとき、突然家出をして上京し、本郷(弓町本郷)教会で海老名弾正より受洗した。人力車婦をしながら正則英語学校中学科に学び、その後、早稲田大学(哲学科)、東京神学社(現在の東京神学大学で、当時の校長は植村正久)に学び、生涯をキリスト教伝道者として生きる志を固めたのだった。明治43年(1910)6月、東京神学社を卒業と同時に霊南坂教会の主任牧師の小崎弘道の勧めで伝道師として招聘を受けた。26歳であった。ところが、種々の事情から教会員と微妙な亀裂を生んでいた小崎弘道に対して辞任を進言した。このような元気のよい一徹な陽太郎は大正元年に朝鮮伝道に挺身した。それからの高松教会赴任である。

 上京した落実は、夫とともに世田谷に大正7年(1918)7月4日に「東京の市民の精神をキリスト信仰で養う」との理想を掲げた東京市民教会を創設した。その直後に夫と死別した。前年の大正8年(1919)10月6,7日に京都の平安教会を会場として思想改造大演説会が開催された。その講師として直勝は「人類解放の原動力」と題して講演を行っている。教会堂建設と教会運営、そして地方講演と多忙ななか、在米中に痛めた体調が回復しない状態での急逝なのか。

 そのころ『婦人新報』に廃娼問題を寄稿した。それを読んだ守屋東に勧められて、日本基督教婦人矯風会本部に入り、総幹事となった。落実の苦しみを知った林歌子は「私は大阪で部屋もあり食もある。月給は小遣いや。それで、あなたの借金が済むまで私の月給をあげましょう」と申し出て、大阪婦人矯風会から活動費として支給されていた25円を毎月同じ日に落実に送り続けた。

 実は、落実は会堂建築費を主婦の友社社長・石川武美から借金していたが、歌子から送金される25円を石川社長に返済し続けた。石川武美は、確実に返済されることにより久布白落実を信用し、落実のいる矯風会をも信用し、矯風会に対して経済的に応援をするようになった。歌子が送金を続けたのは大正9年から13年までのことであった。

 大阪の飛田遊廓新設問題に反対し、林歌子らとともに公娼廃止運動に専念するが、運動は不成功に終わった。
 13年市川房枝らの婦人参政権獲得期成同盟会の結成に参画し、総務理事に就任した。

 大正15年(1926)、城ノブとともに鳥取において公娼問題についての講演会を行った。この年の5月1日〜5日に行われた全国警察部長会議の席上で警保局長松村義一が突如として公娼制度改廃についての諮問案を上程した。これを落実は「これこそ公娼廃止への第一歩」と、


昭和4年(1929)にも落実は講演のために鳥取に出かけた。

 廃娼運動では廊清会と合同して廃娼連盟を結成した。戦後派売春禁止法制定促進委員会委員長となり、国会議員選挙に出馬した。が、落選した。

 矯風会に戻り、昭和31年(1956)売春防止法を成立させた。翌32年日本婦人代表として中国を訪問した。
 37年矯風会会長に就任した。同年、神学校にも通い、83歳で日本基督教団正教師試験に合格した。

 46年矯風会名誉会長。
 89歳で死去。

 藍綬褒章、勲三等瑞宝章を受章した。
 著書に『父』(大正9年)『日々の食物』(昭和47年)、自伝『廃娼ひとすじ』(昭和48年)がある。
 はートマン著『受胎安全期とはなにか』を翻訳した。

 墓は、東京雑司が谷霊園にある。
<やりかけ>
出 典 『キリスト教人名』 『女性人名』 『鳥取教会百年史U』 『高松教会二〇年史』 『霊南坂教会一〇〇年史』 『平安教会百年史』

東京都民教会 http://church.ne.jp/seinan/seek/church.info/tokyotomin.html
日本基督教団平安教会 http://www9.ocn.ne.jp/~heian/

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