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 早川 かい       明治17年 (1884)9月24日〜昭和44年(1969)4月30日
 大正〜昭和期の婦人運動家であると同時に秋田楢山教会員として家族ともども教会生活を送った。

<生い立ち> 
 山梨県中巨摩郡西条村生まれた。祖母が神主の娘だったことからキリスト教に無関係な少女時代を過ごした。

<結婚> 
 地元の共立女学校を卒業して、眼科医でクリスチャンの早川祐吉と結婚した。祐吉は甲府教会員だった。祐吉は山梨県の石和の出身で、16歳の時、神学生だった波多野傳四郎に導かれて、明治22年(1889)3月に信仰を得た。

 かいは、富士川を舟で下り興津で東海道線に乗り上京し、手を合わせて祈ることから教えれ本郷中央会堂教会に出席し、翌年の明治35年(1902)12月に高木壬太郎牧師より受洗した。キリストの愛を知って罪を許され、自由を得て燃える信仰を、かいはもった。この信仰生活は死にいたるまで変わらなかった。

 夫祐吉のすすめで明治女学校に入学し、3年間を寄宿舎で過ごした。この間、明治女学校のよいところを吸収できた様子だ。

<秋田での生活> 
 明治37年(1904)ころ秋田の横手で眼科医を開業する夫に伴って秋田入りして、夫の診療の手助けをした。明治42年(1909)11月に秋田に移住して西土手町に居を構えた。早川夫妻は秋田美以教会(現在の日本基督教団秋田楢山教会の前身)において家族をあげて熱心な信仰生活に励んだ。

 その翌年に当たる明治43年12月29日、早川祐吉かい夫妻は、結婚10周年を感謝記念して教会堂敷地購入費として金700円の寄付を教会に申し出た。はからずも秋田教会30余年の願望が新来の早川夫妻によってその緒を与えられたのだった。

 かい夫妻は、明治45年(1912)2月24日に開催された四季会に出席して、会堂敷地購入および会堂建築に関する具体的協議が行われた。早川夫妻の献金が具体的に神の国建設に役立つときが到来したのだった。祐吉は会堂建築医院として活躍した。
 四季会は、メソジスト教会にとって重要な議事をなす会議であり、メンバーは特に選ばれたもののみである。

 大正5年(1916)早川祐吉かい夫妻は、前年の夏より一家を挙げて上京し、医学の研究をしていたが、帰秋し、日本メソジスト秋田(秋田楢山)教会に転入会して島田胖牧師のよき助力者となって、教会を支えた。大正2年度の正会員が21名、早川夫妻を含めて客員8名であったが、大正3年の教会の騒動により大正6年3月は正会員が12名となっていた。帰秋した早川夫妻は驚いたことであろう。

 大正8年(1919)米国メソジスト教会伝道局の伝道開始100年を記念して世界的大運動を起こすべく計画を立てた。日本のメソジスト教会もまた呼応して伝道開始100年を記念して「大成運動」を起こした。大成運動とは、信徒倍加(一人一霊)、聖書生活(一日一節)、財産聖別(一日一金)の三大綱目を標語としてキリストと教会のために奉仕することを目的とした運動のことである。

 島田胖
牧師を中心として日本メソジスト秋田教会もまた大会準備に備え、大正9年1月27日、メソジスト監督鵜崎庚午郎の大成運動巡回講演が行われた。その席上、早川祐吉は1,000円の献金を申し出た。こうして秋田教会では大成運動献金予約も行われた。早川夫妻は、さらに教会堂建築にも献金をして大成運動の目的のもとに信仰生活を送った。

<矯風会秋田支部長>
 
 大正11年(1922)1月25日、弘前在住の宣教師ミス・ドレーパー、矯風会弘前支部長高谷とく子らが来秋し、彼らの指導のもとに基督教婦人矯風会秋田支部が発足した。その初代支部長にかいが推挙され、支部長に就任した。同12年の関東大震災では、かいの呼びかけで全県九つの婦人団体の協力で被災地に見舞品を贈ることができた。わらぶとん1080枚を造り、かいは、秋山つや伝道師とともに上京して東京および横浜の罹災者に贈った。

 早川夫妻は、六男二女を与えられ、教会活動と社会活動に献身的に尽くす家族となった。末娘の森安恵子は、次のように母・早川かいを述懐している。
  「大正末年には火災で焼失した自宅を新築し、末娘の私をを42歳で出産し、また教会堂の建築があり、委員長だった夫に協力したりで、鏡を見る暇もない多忙さでした。」
 
 昭和3年(1928)8月18日の夕べ、秋田市内の一角常盤町貸座敷栗田楼栗田ヒサ方から発火し、南東の強風によっての遊郭地帯186戸が焼失した。11軒の遊郭(貸座敷)のうち、2軒を残して焼失した事件であった。ことのき、いちはやく遊郭再興反対、売春婦開放を叫んで立ち上がったのが、かいの率いる矯風会秋田支部であった。これはさらに公娼廃止運動にまで発展し、ついに秋田県は全国で4番目に公娼廃止に踏み切るに至り、12月21日、公娼廃止案が県会を通過したのだった。

 群馬・埼玉・福島そして秋田の4県が公娼廃止を決めた背後には矯風会の涙ぐましい働きがあったことはいうまでもないが、議長の一言は印象的だ。

 かいは、娘たちの救済に命がけで活動して廃娼運動に取り組んでいたが、県議会の廃娼決議まで運動が盛り上がった直接のきっかけは上述の火災と、かい支部長を中心としたいち早い復興反対運動にある。久布白落実は9月5日夜、1,000名を超える来会者を前に廃娼講演会で「昭和維新」と題して国民の自覚より説き起こして断然廃娼すべしと、熱弁をふるった。

 かいは時田楼と膝談判をするなど命がけだった。山室機恵子が夫・軍平の留守中に女一人で遊郭に乗り込んだ勇ましさと変わらぬ命がけだった、といえよう。しかも、まるで山室一家と同じような状態だったといえよう。異なるのは夫が宗教家と眼科医の相違だけだ。

 自宅の二階を開放して、逃げ込んでくる娘らを匿い、いたわりや借金の始末から威嚇する業者との交渉などをする一方、階下の大家族の世話、身寄りの無い高齢者を離れで世話をするなど、食事の世話から心配りを一心に負った。だが、夜は一同が集まって家拝をし、地方から伝道に見える講師たちの宿舎にも早川家は早代わりした。

 匿いきれない廃娼の娘らを身の安全のために裏の垣根から教会の協力のもとに夜汽車で東京のキリスト教婦人矯風会へ送り届けることもあった。

 かいたちの運動により県内の婦人運動は盛り上がり、昭和4年(1929)には婦人参政権獲得期成同盟秋田支部結成を和崎ハルととも推進し、県内各地の労働運動にも婦人団体が進んで参加するまでになった。

 同8年11月24日には女性の自立更正を目的とした施設「社会福祉法人秋田婦人ホーム」を創立させ、かい自身が理事長に就任した。同年10月10日、婦人ホームの4名が他の求道者2名とともに亀徳牧師から受洗した。どんなにか神に感謝の賛美と祈りをささげたことだろう。
 しかし、種々の事情から秋田婦人ホームの経営主体がかい個人となってしまった。維持経営のために容易ならぬ苦心と祈りがささげられた。10年(1935)1月15日、秋田婦人ホームは、斎藤いゑの献身的補佐によって付属託児所「城南園」を開設した。このときの教会牧師亀徳正臣は、青年時代には献身するまえに神戸で賀川豊彦のスラム街伝道を手伝ったことがあり、また『近世基督教社会運動思想史』を上梓し、他方、秋田高等女学校や盲唖学校に講演を依頼されたり、凶作地視察、信州の野蘇運伝道協議会に出席するなど多忙の中ではあったが社会の動きと苦しんでいる人々へのあたたかな配慮をもっていたことが、託児所開設の支えでもあったであろう。11年4月には同ホームが日本メソジスト教会維持財団の所属となった。

<夫の死> 
 夫・祐吉昭和13年(1938)年12月14日、東京で死去し、教会の永眠者の列に並んだ。
 医者として多忙な身でありつつも妻の社会運動によき理解者であり援助者であった夫の死は、どれほどかいの心に大きな悲しみと寂しさを与えたことであろう。遺された5人の息子は医者になり両親の信仰を受け継いで神と人のために尽くす早川ファミリーであった。戦時下の食料難のころには、タイや中国からの留学生を家族同様にして面倒をみた。息子の祐三は軍医として当時の「北支」に出征した。

  昭和14年8月4日、秋田の教会では土合竹次郎牧師の正子夫人が東京で死去し、かいは、個人が伝道師として働いた青山教会において秋田教会を代表して弔辞を述べた。16年(1941)4月22日に土合牧師は隅谷幸子と再婚した。この媒酌人となったのが、メソジスト教会銀座教会員の杉原正四郎・錦江夫妻だった。錦江は、昭和30年(1955)8月28日に秋田楢山教会で「キリストを得るために」と題して礼拝説教を行った。その前年に、かいは東京の阿佐ヶ谷教会に転会した。

 秋田県の婦人解放運動の先駆者として活躍し、県文化功労賞を受けた。婦人運動の母として、秋田の先覚記念室に名が和崎ハルと同様に掲載されている。

 昭和29年(1954)秋田楢山教会から阿佐ヶ谷教会へ転会した。視力が衰え、駅の手すりを頼りに世田谷から阿佐ヶ谷教会へ喜びをもって通った。当時の牧師大村勇が「働き者のマルタがマリアになりましたね」とねぎらう言葉をよろこんだ。

 80歳を過ぎて、秋田で静養することにして、桜の季節に主の身許に召された。85歳だった。
出 典 『秋田楢山教会百年史』 『阿佐ヶ谷教会』 『キリスト教歴史』  『女性人名 』 『秋田人名』  『矯風会百年史』 『阿佐ケ谷教会』

秋田の先覚記念室  http://www.akita-c.ed.jp/~hakubutu/kannai/exhib/senkaku/exhib-s.htm
日本基督教団阿佐ヶ谷教会 http://www5.ocn.ne.jp/~asgych/