大正〜昭和期の婦人運動家。
<生い立ち>
秋田県楢山南新町下丁の栗谷信幸の三女として生まれた。
明治37年(1904)、秋田高等女学校一期生として卒業した。
女学校を卒業と同時に受洗した。さらに音楽学校に進学し、かたわらキリスト教小学校につとめた。
金沢市出身の騎兵将校和崎豊之と結婚したが、大正10年(1921)死別し、二男と三女と66歳の姑が残された。ハルは髪結となり、上京して新しい洋髪技術を学び、同12年秋田最初の美容師となった。
同年基督教婦人矯風会秋田支部を早川かいとともに創立した。婦人解放と婦人の職場拡大を主張した。
13年、愛国婦人会支部に働きかけ娼妓更正のための芸妓学校を設立した。ここで、毎週日曜日になると約50人の芸者が国語や書道、また希望者には英語の指導が行われた。
昭和4年(1929)秋田婦人連盟を早川かいとともに設立した。議案を秋田県議会に提出し、通過させた。
昭和19年(1944)長女テル子の疎開先横手に移住した。翌年、『私の歩んだ道』を出版した。
21年(1946)、戦後第一回衆議院議員選挙に立候補し、10万票の最高点で当選した。最高得点を得るためにハルは努力した。それは、当時の読み書きのできない有権者に「ハルのハはお辞儀するときの手のかっこう」と、お願いして歩いた、と紹介されているが、ハルが弱い立場の女性を深く慮っての立候補であることが別角度から暖かいおもいとして読み取れる。
大阪阿倍野の長男嘉之のもとで67歳の生涯を終えた。
26年(1951)11月18日、秋田市金照寺山に市川房枝筆「秋田婦人の母和崎ハルさん」の記念碑が建てられた。 |