山岳信仰雑学その2  2006年6月11日更新
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5 山岳信仰雑学  その2
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・ある御嶽教の教え




高尾山の天狗
(薬王院)
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1 山岳信仰の概要
2 山と神
3 宗教とたたり
4 山岳信仰雑学その1
5 山岳信仰雑学その2
6 山岳信仰用語集




 
 
山岳霊場巡礼                            山岳信仰雑学その2表題へ戻る
                         
恐 山(おそれざん)(879m)・・・・みちのく三世の山 
 わが国で、仏教と庶民のかかわりを強めてきた、もっとも端的なちからは、「死ぬと、地獄へ墜ちる」かもしれないという、あの地獄への恐怖かもしれない。

 罪を犯しながら生きざるをえない人間の心の奥にまで、地獄世界を刻印してしまったのは、日本天台宗の恵心源信であり、その著『往生要集』だったといっても過言にはならないであろう。日本人は現実の風景に接する以前に、すでに心のなかに、地獄の風景を描いてきたのだった。いや描くというよりも、実は日々の生活に、地獄の様があった。だからこそ、仏教に説く地獄世界は、そのままこの世と地つづきの恐ろしい現実として受けとめられていた。

  こうして風景の異状を重ねて見る日本人の心情に、恐山の光景はまさに地獄の現場そのものだったにちがいない。そして山岳霊場の、もっとも典型的な姿は恐山の見られるといってもいいかもしれない。
 比叡山・高野山とともに、日本三大霊場の一つにも数えられる恐山は、山の霊場へ行けば、死んだ人に逢えるという、日本の山岳霊場のもっとも典型的な姿を示してい る。

 人々は亡くなった人の霊が鎮まるようにと、供養の品々をそろえ、石の地蔵尊の前でいつまでも手を合わせて祈る。この山には、亡き人の霊と、地獄の救済者地蔵菩薩が共存しているのだ。しかも釈迦如来像を本尊とする一方、地蔵菩薩を本尊とする地蔵堂では、春・夏・秋にわたる豊作祈願や豊魚祈願といった現世利益の祈祷もする。こうしてさまざまな願いを託される恐山には、祈願の世界も、過去世と現世が並存しているのである。
 地蔵は、地獄の救済者であると同時に、地獄の恐るべき裁判官・閻魔王でもあるという、二つの極面をいわれている。
 
木曽御嶽山(3063m)
 日本アルプスの南端に位置し、信州・美濃・飛騨にまたがる独立峰として、古くから「名山に富士、名嶽に御嶽」とたたえられたこの山の頂上からは、中部地方の主要な霊山が一望のもとに見える。

 修験の山としての御嶽は、長いあいだ百日ないし七十五日の精進潔斎(しょうじんけっさい)を経たものでなければ、登拝することは許されなかった。山麓にいて、林業や農業にいそしむ人々のなかで、この厳しい修行を経て登拝することのできる人々は「道者(どうしゃ)」と呼ばれた。この道者だけが、集団で御嶽へ登拝することができたのである。だからこのころ、日々の生活に追われ、しかも長い精進潔斎に耐えられない人は、すぐ間近に仰ぎながら、御嶽へ登ることはできなかったのである。山麓に生まれ、御嶽を母なる山と思い、その山容に親しんできた人々の多くは、ただ霊山を仰ぐだけであった。

 御嶽山信仰に生涯をささげ、その登拝に力を尽くした、尾張出身の覚名行者が1785年(天明五年)に霊峰御嶽の一般への開放を願って黒沢村を訪れたのが、のちに、御嶽信仰の新しい時代を切り開いた人として尊称される。これが黒沢口の登拝ルートである。覚名は翌天明六年、登拝を強行し、御嶽山々頂下の二の池の近くで入定し、その生涯を終えた。木曽の御嶽に新しい登拝の時代が訪れたのは、このときからであった。

 一方、黒沢口のルートとは別に、王滝村を通る新ルートを開拓しようと来村したのが、江戸の普寛行者である。普寛の来村は、王滝村にも登拝者を引き入れようとする地元民の協力もあって、王滝口登山道は1792年(寛政四年)に開かれ、いよいよ木曽御嶽山の名は、江戸を中心に、さらに関東地方にも広く知れわたっていった。

 普寛は、その前に秩父の御岳山も開山した人で、秩父ではその名が知れわたっている。
 御嶽信者は、全国に広がり二百万とも三百万ともいわれている。
 昭和五十四年十月の、御嶽の歴史上、初の大爆発のあと、王滝山頂近くの爆裂火口は、まだかなりの勢いで白煙を噴き上げている。山道は、泥状になっていて、雨のあとなどはとくに歩きにくい。

 人々は、山を信仰登山するようになった往時から、途中に地獄があれば、地獄の恐ろしさ凄さを目のあたりにし、神々の遊ぶところかと思うほどの花畑があれば、そこに浄土を観る。そのことが登拝の重要な経緯ともなっていたのだ。山は下界とは異なり、そこには地獄も浄土も現実のこととしてあった。登拝は、苦しみがあるからこそ、下界に下りて再生することができるのだと考えられていた。
 
白 山(2702m)・・・・・観音示現の白き峰 
 ・白のイメージ
 白のつく自然や地名は、わが国には以外に多い。それは、山や河川にかぎらない。自然の名称に白が付される、古代日本の精神文化の反映が、こんなところにもうかがうことができるのである。だが白の下にいきなり山を付して<白山>と呼ばれる山は、珍しい。

 日本海に近く、ほとんど独立峰に近い山容を見せ、石川・福井・岐阜の三県にまたがる白山は、そのハクサンという響きからして、この山をまだ見ぬ前から、ひとつの清澄なイメージをいだかせるに充分だ。いかにも清々しい山名の余韻が、この山の自然のありようを果てしなく広げてくれる。

 白山を白山と呼ぶその発端は、海上からの聖なるイメージにも増して、古朝鮮における「白」に対する独特の観念の影響があるように思われる。つまり、雪をいただく神聖な山容を、そのまま聖なる霊異を秘める白を冠した山と呼ぶ人々の背後には、朝鮮半島の自然風土を根ざした宗教意識があるのかもしれない。

 「白」が色彩としてよりも、「生まれる」「生まれ清まる」意識をもともと持っていて、そのことに視覚的な聖性が加わり、白山を「生まれ清まる」山、つまり、山岳宗教、修験道の目指す本来の意味である。「再生」につながる霊山として仰いできたのではないだろうか。
 
何故白衣を着るのか?                 山岳信仰雑学その2表題へ戻る
  「白」は古朝鮮では、「人間の誕生」の意味をもっていた。かつて愛知県下で行われていた、「花祭」に登場する白山(しらやま)は人間が「生まれ清まる」ための不思議な装置であったことも思いあわせなければならない。
 山岳修行において、行者のまとう白衣は、死装束であると同時に、それは死にっきりでなく、生まれ清まる、再生のための浄衣にほかならないのである。
 
「山岳霊場巡礼」あとがき
 山歩きに、山岳宗教を意識して歩きはじめてから、そこには客観的な自然などなく、いよいよ親しいものとなり、しかも山を離れたどこにいても、日常の思考の根底を支える重みを増していった。そして、山が日本の宗教のあらゆる要素を含む文化の母胎であることを知ったとき、歩くことによって、山の宗教を探ることが、習合した日本の宗教を知るにもっともふさわしい方法であるというにいたった。

 山の宗教は想像以上に古い、この古代宗教の時代に端を発しているだけにその複雑さに一様でないのは当然かもしれない。だが複雑のなかにも、山岳宗教の世界観は、つねにあるひとつの方向を指し示しているように思う。

 山は間違いなく人間に生きるエネルギーを与えてくれる。だからこそ、その超自然の息づきに気づけば気づくほど、現代のありように対する危機管理はつのるばかりだ。山を生死の狭間の行場として、いまも捨て身の行に打ち込んでいる人間がいるという事実を余所ごとして安易に見過ごしてはならないと思う。
 宗教を単なる知識としてではなく、いまここにこうして生きている自分とどうかかわるのかの問いこそが、歩く宗教学の基本に据えられるべきことだと思う。

            久保田展弘著「山岳霊場巡礼」新潮社 1985年2月20日
                     
 
山伏修行                                  山岳信仰雑学その2表題へ戻る
道なき道・・・・・再生求め 
 白装束に脚絆をつける。鉢巻きには抵抗があったが、地下足袋のこはぜを留めるときには、羽黒山ふもとの出羽三山神社社務所(山形県羽黒町)に、高揚した気分が充満してきた。全国から集まった十代から六十代の参加者が「修験者見習い」の姿を整え、二泊三日の錬成修行道場が始まった。

 「ブォー、ブォー」。こぬか雨の中、山伏が吹くほら貝の合図で出発。朱色の髄神門をくぐって神域に踏み込むと、気温がさっと下がるのがわかる。

 出羽三山の信仰形態は、「三関三度(さんぜきさんど)」といい、生まれ変わりを求める信仰だ。私たちが着た白い行衣は死に装束であり、産着でもある。
 「門から先は胎内です。羽黒山は現世。過去世である月山で古い自分と決別し、湯殿山で生まれ変わる修行です」と道彦(先達)を務める権禰宣の吉住登志喜さん(41)。
 出羽三山は、崇峻天皇の御子・峰子皇子の開山から千四百年を数える。山岳信仰に基づく羽黒派古修験道と共に、石上神宮(奈良県天理市)が起源の自修鎮魂の所作など、神道行法も伝えられてきたことから、双方をミックスした一般向けの錬成修行が、二十年来行われている。
 所々の拝所で、出羽三山独特の節をつけて神拝詞(しんぱいし)を唱え、かしわ手を打つのは神道の所作。「山伏気分」は山中までおあずけだ。

 道彦によって内容は若干異なるというが、吉住さんは「和の精神」を強調する。「自己中心的な人は抜けてもらいます。みんなでやるから、つらい修行も心地よいものに変わるのです。心も豊かにしなければ、修行の意味がありません」
 食事は一汁一菜。二日目の晩、直来(なおらい)のごちそうで一息つくまで、空腹と闘うことになる。

 「病気を治しに」「退職後の人生に厳しさを求めて」など、外国人二人を含む三十五人の参加理由はさまざまだ。経験者も多い。宮城県の会社社長(44)は「部下の気持ちが分からなくなっていたが、しかってくれる人がいない」ことを悩み、去年から参加している。

 修行二日目は、屋根をたたく風の音で目覚めた。月山八合目の山荘を、早朝四時に出発。頂上を目指すも、強風と雨で、まっすぐ登れない。
 月山頂上から湯殿山までの四.六キロの下りの後に、修行のハイライトは待っていた。滝行の場・含満(がんまん)の滝まで、梵字川に沿った沢筋を行く「御沢駈(おさわかけ)」は、かつて修験者が通った道なき道だ。

 岩から岩へ飛び移ったかと思うと、増水した川を横切り、コケむした岩肌にしがみつきながら進む。揚げ句の果てには、高さ三十bのがけにかけられた金ばしごをよじ登れという。
 しゅん巡する私に、「ここからじゃ引き返すのも大変ですよ。進んで、進んで」と、背後から山伏のこわい声。行くしかない。
 何とか目的地にたどり着き、緊張が緩んだのもつかの間、今度は滝行だ。

 雪解け水を集めてごうごうと流れて落ちる滝。歯がかちかちいい出したのは、恐怖心からか、水に冷たさのせいか。もたもたしていると、熟練修行者に手を引っ張られた。アッという間の早業で、今度は山伏によって滝の下に押しつけられてしまった。水圧のパワーを全身に受けた三十秒。人間の無力さを感じるには十分の時間だ。

 修行仲間にはお世話になった。虫刺されの薬を貸してもらったり、足場の悪い所で手をとってもらったりと、終始受け身だった私。そのことに気づいた途端、「だれかのために出来ること」を必死に探り始めたのは、我ながら予想外の出来事だった。
 重い足をひきずっての帰路、もやにかすむ峰々がまほろばに見えた。
 
        2000年9月5日(火) 読売新聞朝刊 ルポ 永井あさみ記者
 
 
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ある御嶽教の教え
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三 教 律
  宜しく、神徳神恩に、報ずべし
  宜しく、人倫の道を、全うすべし
  宜しく、本業正紀を、おこたるなかれ
 
五 教 言
  登拝して、心洗えの、御教
  山を抜く、力で折れの、御教
  愛憐の、涙ながせの、御教
  にこにこと、先ず融(と)け合(あ)えの、御教
  戒行衣(かいぎょうい)、常にまとえの、御教
 
七 汎信(はんしん)の道・・信ずるは安ろうの道、疑るは不安の道、信ずる心を養い、神とともに歩め
  温愛の道・・暖かきは、育つ道、冷たきは枯れる道、暖かき心を養い、育てる道を歩め
  和合の道・・ゆるすはゆるされる道、責めるは責められる道、ゆるす心を養い、寛き道を歩め
  感謝の道・・感謝は守られる道、不平は捨てられる道、感謝の心を養い、守護ある道を歩め
  奉仕の道・・つくすは貸しを積む道、求めるは借りを積む道、尽くす心を養い、貸すの道を歩め
  勤労の道・・汗を流すは禊(みそぎ)の道、汗を惜しむは汚れの道、汗を愛する心を養い、汗で清めた道を歩め
  永生(ながいき)の道・・明朗(あかるさ)は老(お)いざるの道、陰気(くらき)は、短命の道、神に拠(よ)りて童心(あかるきこころ)を養い、不老(ふろう)の道を歩め
2006年3月1日から
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