山岳信仰、山岳信仰雑学その1  2006年6月11日更新
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4 山岳信仰雑学  その1
このページは山岳信仰雑学のページです。
・「創唱宗教」と「自然宗教」 

・死者は何故ホトケ

・宗教の概念         

・富士信仰の変遷

 

天狗(高尾駅)
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「創唱宗教」と「自然宗教」

 日本人の宗教に関する調査結果によれば、だいたい全体の7割が「無宗教だ」と答えている。だが不思議なことにその7割の75%が「宗教心は大切だ」とも答えている。
 つまり、「個人的には無宗教だが、宗教心は大切だと思う」という人が全体の過数を占めていることになる。
 日本人の多くが「無宗教だ」というときには、「特定の宗派の信者ではない」という意味で、キリスト教徒などがいう「無神論者」ということではない。

 だいたい日本人の多くは宗教心は豊かであり、「特定の宗派」に限定されることに抵抗があるものと思われる。
 宗教を区別する場合、「創唱宗教」と「自然宗教」が日本人の宗教心を分析する場合に有効だと考えられる。
 「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人達がいる宗教のことである。教祖と教典、それに教団の三者によって成り立っている宗教といいかえてよい。
代表的は例は、キリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。 

 これに対して「自然宗教」とは、文字通り、いつ誰によって始められたかも分からない、自然発生的な宗教のことであり、「創唱宗教」のような教祖や教典、教団を持たない。
 「自然宗教」というと、しばしば大自然を信仰対象とする宗教と誤解されがちだが、そうではない。あくまで「創唱宗教」に比べての用語であり、その発生が自然的で特定の教祖によるものではないということである。あくまでも自然に発生し、無意識に先祖たちによって受け継がれ、今に続いてきた宗教のことである。
 
「無宗教」という名の宗教心
 「無宗教」とはいうが実際は「自然宗教」の優越、それが日本人の宗教心の内容だといわれる、具体的な内容はどのようなことなのか。
 たとえば、初詣を思い起こしてほしい。日頃、神社に足を運ぶこともしない多くの若者も、正月の元旦だけは初詣にでかける。若者だけでない、中年も年寄りも神社にでかける。どこの神社が参詣者数においてトップになるか、そのお賽銭の上がり具合はどうかといったことがマスコミを賑わす。初詣に出かける人々のどの程度がはっきりした信仰心に基づいているのか、それは心もとない。正月自体がすっかり長期休暇の一つになってしまって久しいから、初詣もその休暇中のちょっとしたイベントにしかすぎないのかもしれない。しかしともかくも、毎年のように元旦には8千万を越える人々が社殿に詣でているのである。

 どうしてこのように多くの人々が初詣にでかけるのか。それこそ、日本人の多くが「自然宗教」の「信者」である証拠なのである。「自然宗教」という言葉がなじみがないからだれでも自分たちが「信者」であるとは思ってもいないが、初詣をする人はれっきとした「自然宗教」の「信者」ということになる。

 もう一つの例は、お盆のときに多数の人々が故郷に帰ることだ。混雑に中を何故それ程までして故郷に帰らねばならないのか。ここにもまた「自然宗教」の「信者」なるが故の苦行がある。お盆の墓参りは「自然宗教」の重要な行事なのである。
 では「自然宗教」とはなにか。ご先祖を大切にする気持ちや村の鎮守にたいする敬虔な心が、そうなのである。そこでは、人は死ねば、一定期間子孫の祭祀を受けることでご先祖になることが信じられているし、そのご先祖は、やがて村の神様にもなり、ときには孫子ともなって生まれ変わることもできる。

 あるいは、人は死んでも遠くへはゆかず、近くの山に住み、子孫やゆかりの人々を草場の陰から見ているのであり、盆や正月に子孫を訪ねることもできる、と信じられているのだ。お盆に帰省するのも、もともとこうした先祖たちと交歓するためなのである。

 墓参の際に墓に水をかけるのも大切な儀礼なのだが、日本人以外に墓に水をかけるという習慣を持った民族はほとんどいない。
 どうして日本人は墓参の折りに墓石に水をかけるのか。柳田国男氏によると、墓にかける水は、もともと墓の住人(?)が生まれたときに産湯として使用した井戸の水でなければならなかった。どうして産湯に使った水でなければならないのか。それは亡き人にその水を示すことによって、あなたは死んでも決して故郷から遠いところへはいってはいない、いやあなたはゆかりのある人々の近くにいるのだ、ということを教えるためなのである。

 どうしてそのような面倒な手続きが必要なのか。思うに仏教が民衆の生活のすみずみにまで入ってきて、人は死ねば極楽という現世からはるかに隔たったところへいくという教えが広まってきたことと関係があるのであろう。日本の民衆の中には、極楽へ生まれることは歓迎しても、ゆかりの人々や土地から離れることには抵抗があったのだ。そのために、墓参に際しては、必ず水をかけるようになったのではないか。墓が民衆に普及するのは、一八世紀頃からであるから、大昔からの風習とはいえない。
 
「宗教」はなぜ怖いか
 「無宗教」だという人の中には、宗教が恐ろしいから宗教に近づかないようにしているという人も少なくない。宗教にともかくも関心をもたないようにする、それが「無宗教を」標榜させているのである。

 なぜ宗教は恐ろしいのであろうか。たとえば、マスコミを賑わしてきた事件を思い起こすまでもなく、人の弱みにつけこんで、しばしばあり金や財産のすべてを巻き上げるから、ということもあろう。あるいは、教団という特別な世界に連れてゆかれて普通の生活ができなくなるという心配から、また、教祖と称する人物に自由に操られるという恐怖もあろう。要するに、宗教とは常識でおしはかることができない得体の知れない世界だから、できるだけ近づかないようにするということになろうか。

 もちろんここでいう宗教は、ほとんどが「自然宗教」というよりも「創唱宗教」に属する。特定の教祖や教義、教団が怖いのである。ご先祖や氏神が怖いということはない。一度特定の教団にからめとられると、自由を失ってしまうのではないか、と過剰なまでに自己防衛するのである。ここにも、日本人の「創唱宗教」ぎらいがはっきりあらわれている。
 
「葬式仏教」について
 「葬式仏教」とは、日本に固有の仏教のあり方をさしており、日本文化のユニークな産物といえる。タイやヴェトナム、中国や朝鮮半島など、仏教が今もなお生きている地方で、「葬式仏教」といってもほとんど意味は通じないであろう。それほどに「葬 式仏教」とは、日本仏教に固有のことなのである。

 では、「葬式仏教」とはどのようなものなのか。まず、僧侶によって死者に戒名や法名がつけられる。法名という呼び方は、教義上戒律を必要としない浄土真宗の教団で使用される。戒名(法名)は、おしなべて「釈○○」と記されるが、その「釈」は釈迦の「釈」に由来しており。仏弟子になったことを示す。もとは、生きている内に仏教徒になった証として与えられるものであることはいうまでもない。

 次ぎに、葬送が仏教儀礼で行われ、そのあと死者のための法要や年忌が、僧侶を招いて行われる。具体的にいえば、初夜、二七日(ふたなのか)、三七日、四七日など一週間おきの法要があって、中陰つまり四九日が行われる。このあと百ケ日、一周忌などがあって、普通は三三回忌で終了する。 

 ついでにいっておけば、中陰は、インドのしきたりであるが、百ケ日や一周忌、三周忌は、中国で成立した。そして、七回忌や一三回忌、一七回忌、二五回忌、三三回忌は、日本で生まれた。五〇回忌や百回忌といった長期に及ぶ年回法要は、おそらく浄土真宗の影響で生まれたといってよいであろう。法事は、意外にも国際的な由来をもっているのである。

 さらに、毎年故人の死んだ月日に僧侶を招いて読経をしてもらう(祥月命日)ほかに、毎月故人のなくなった日にも僧侶を招く(月忌法要)。そして春秋の彼岸をはじめ、盆や祥月命日には墓参をする。そのときも、僧侶に読経を頼む。家に仏壇があって位牌があることは、いうまでもない。旦那寺には、代々の故人が過去帳に記載されており、住職はその過去帳を繰っては、だれそれの何回忌が回ってきました、と子孫に知らせる。それにしたがって法要が営まれる。これが「葬式仏教」の具体的なすがたなのである。
 
イエの仏教
 「葬式仏教」と呼ばれる特異な日本仏教が、一五世紀頃から姿を見せ、一六、七世紀には沖縄や北海道をのぞく日本列島の各地に広く定着するようになる。

 「葬式仏教」の成立は、村々がなによりも、経済的に豊かになりはじめることを前提とする。貧しいときには、村に職業的宗教家を常駐させることは不可能であり、葬式も村人たち手で行われるのが普通であった。
 村々に経済的余裕が生まれてくると、それまで村々を経巡っていた僧侶や山伏、行人を定着させることができるようになり、彼らに堂を与えて住まわせ、葬式をはじめとする宗教行事を担当させるようになってくる。

 だがそれだけでは、「葬式仏教」の成立にはまだ十分とはいえない。村々において「家」という意識が明瞭となり、人は死んでも、「家」の一員として祭られ続けるという信念が姿を見せはじめて、「葬式仏教」の成立の条件が整うことになる。
 「家」は、家族とは全く異なる社会制度である。家族は自然発生的な集団であるが、「家」は、あくまでも特定の歴史的な条件のもとで成立する制度なのであり、一四世紀から一六世紀にかけて成立したといわれる。「家」は、家業と家産をもつ「生活の拠点」であり、「社会的活動の一つの単位」であり、なによりも、「家」の永続が「家」を構成する人々の最大の願いであったところに、大きな特徴がある。

 日本人とはなにかという問題を、終生、問い続けてきた柳田国男氏は、「家」の永続の願いこそ、日本人のもっとも深い情念であると主張し続けてきた。その願いとは「死んだ自分の血を分けた者から祭られねば、死後の幸福は得られないという考え方」であり、それは、いつの時代とも限ることができないはるかな昔にはじまっており、「一つの種族の約束事」だとまで述べている。

 こうした「家」意識の発生をまって、あるいはそれと不可分の関係において、いわゆる寺請檀家制度というものが登場する。この制度こそが、「葬式仏教」を完成、定着させることになった。

 人々は、子孫に相続させる財産があっても、またなくても、それとは無関係に、「家」の永続を願い、家族が死ぬと、仏教式の葬送と法事を繰り返して、死者が「成仏」して「ご先祖」になり、永遠に「家」のメンバーであり続けることを期待したのである。つまり、「浮き世」でこの世を享楽できるのも、「葬式仏教」によって死後の安楽 が保証されるようになったからなのである。


 
なぜ死者を「ホトケ」というのか                    山岳信仰概要の表題へ戻る
 年回法要とならんで、死者を「ホトケ」ということこそ、「葬式仏教」極致といえる。死者は祭れば「ホトケ」になるという信仰こそが、「浮き世」の享楽や儒教の道徳主義(道徳を守ってさえおれば人生は充実したものとなる)を可能としたのである。
ところで、なぜ死者を「ホトケ」というのか、という問題は、にわかには答えることがむつかしい。というのも、仏教では本来「仏」は「ブツ」と読まれてきたからである。「ブツ」は「ブッダ」に由来することはいうまでもない。ブッダというインド語の意味は、「覚者」、「悟った人」である。決して「死者」を意味しない。

    阿満利麿著「日本人は何故無宗教なのか」ちくま新書 1994年10月20日
信仰とお賽銭
 純粋な信仰からみれば、お賽銭を供えるということは、現世利益という反対給付を期待する低級な信仰である。第一、信仰の対象が仏像であることも、偶像崇拝の一種であって、これまた高級な信仰でないともいえる。
                               
 一遍(1239〜1289)は、法然(1133〜1212)、親鸞(1173〜1262)、道元(1200〜1253)、日蓮(1222〜1282)と続く鎌倉仏教の巨峰のうちの念仏宗の流れをうけて、時宗の開祖となった特異の存在である。
                               
 一遍の説は、われわれのもっている常識的な「宗教」の概念は、現実の世俗生活におけるさまざまの悩みや問題意識が、物や技術や知識ではどうしても解決されないときに、最後に心のよりどころとしてたどりつく避難所あるいは救いの場所という意味である。おそらく大部分の宗教は生きるための救いであり、また、生きることを喜びとすることを教える。また仏教系統では、死の覚悟をうながす教えや、臨終のための心の準備をさせることは珍しくない。

 しかし、一遍のように生きながら死して来迎を待つべしという生き方を説く宗教は類をみないのではないか。それは「生の構え」というよりは、むしろ「死の構え」である。「死の構え」を基本とした生き方である。
 
死んで楽になる
 死ぬことにより楽になるとは、天国に行くとか、浄土に往生するとかいう意味ではなく、生きていること自体が苦しみであるという理解をもととしている。これは仏教思想の普及によって、いっそう深く日本人の心にしみこんだようであるが、仏教の影響を受ける以前の日本人にとっては、現世と彼岸、生と死とは、現代のわれわれが考えるほど際立った断絶関係にはなかったであろう。

 その意味で、顕の世界での生活の終わりが死であるとしたら、そもそも生命の根源である「妣の国」、霊の世界に戻ることが、ごく自然のことと考えられていた。したがって、浄土思想のように、阿弥陀仏に迎えられて西方極楽浄土に往生するとか、キリスト教信仰のように、天国の神のもとに召されるかという立派な、格式のある死の解釈でなくて、自然から生まれたものが、自然に還るという、まことにおおらかにして素朴な、ある意味ではしたたかな死生観ともいえる。
 
青年の宗教意識
 昭和47年(1972年)の秋に実施された「世界青年意識調査」によると、「あなたは信仰をもってますか。あなたの宗教をお教えください」という質問に対して日本の青年の答えは、「信仰に関心がない」74.0%、「神など信じられない」5.8%、これを合わせると、約80%が無信仰、無宗教ということになる。

 これに対して、日本以外の諸外国はどうであるか。日本についで「信仰に関心がない」国はスウェーデンで、41.1%、イギリスが31.8%、以上三国を除くと、あとは70%から80%、あるいは90%以上の青年が、何らかの宗教的信仰をもっている。
 日本の青年の信仰の内訳は、キリスト教のカトリック1.3%、プロテスタント1.0%仏教の12.1%、その他の宗教4.5%、合計18.9%であるが、このような関心の低い国は世界に類を見ない。

初詣の怪
 宗教意識の低さは、日本では青年だけではなくて、より高い年齢層においても一般的に認められるだろう・・・・がなぜ毎年正月の神社仏閣への初詣に、驚異的に大勢がでかけるのか。昭和58年の初詣についての警察庁の発表によると、元旦から三日までの三日間の参拝者は8160万人(前年比290万人増)ということである。

 8160万人といえば、現在の日本の人口の約74%である。一人で何社かに参拝する習慣もあるので、それを差し引いたとしても、なお厖大な数である。そしてそのなかの何十パーセントかは青年である。これはどういうことか。
 神社仏閣に参拝するということは、明らかに広い意味での宗教的行為である。

 何千万人という青年が初詣をする。こういう現象も世界に類を見ない。世界中で最も宗教意識の低い日本青年が、正月には世界に類を見ないほどの圧倒的多数で初詣という宗教的行為をする。これは少なくとも外見からすれば、明らかな矛盾である。しかも、初詣をする人の中で、その神社の祭神が何神であるかを知っているのは意外に少ない。

 しかしこの場合、宗教とか信仰とかいう概念の内容あるいはその適用について、少し整理してみると、外見上の矛盾は部分的には解消する。つまり、「世界青年意識調査」で質問を受けた日本の青年たちは、初詣や墓参りや法要を、取り立てて宗教的信仰の表現とは考えていないのである。

     磯部 忠正著「日本人の信仰心」講談社現代文庫 1983年11月20日

富士信仰の変遷
                             山岳信仰概要の表題へ戻る
                                                                   
 富士山はどこから見ても美しいし、夏は近づくこともできるが、ひとたび雪が降るとなにびとをも寄せつけない冷厳な面がある。この美しい容姿と山そのもののけわしさに対する畏敬(いけい)の念は当然のことながら、富士山を絶対無限の力を持った対象として眺めるようになり、ここに富士信仰の道が開けた。

 富士信仰といえばまっ先に出てくるのは浅間神社である。最も古い文献では「文徳(もんとく)実録」に八五三年(仁寿三年)七月に駿河国浅間神社が従三位に叙せられたと書いてある。浅間神社の社伝によると、浅間神社の鎮祭は孝霊天皇の御世に「山足の地」に浅間神社を祭ったといわれている。孝霊天皇の時代というと弥生時代から古墳時代前期にかけての頃である。この頃から富士山の信仰は始まっていたのである。

 富士信仰が実践宗教として脚光を浴びて来たのは、平安時代にはいってからで、一一四九年(久安五年)に僧末代(まつだい)が頂上に登って、浅間大菩薩を祭ったという記録がある。浅間神社は木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祭神としたものであるが、僧末代の頃になると、神と仏が合体して、浅間大菩薩という宗教的対象が生じ、これがいわゆる富士信仰という民衆信仰の基礎となって幕末まで尾を引いた。

 戦国時代の終わりになると、角行という行者が現れ、富士山麓の人穴にこもって荒修行をし、富士講の基礎固めをした。富士登山という、実践に基礎をおき、神道とも、仏教とも、儒教ともつかぬ、新興宗教がここに誕生したのである。この富士講は時代の経過と共に次第に発達し、江戸時代になると大衆宗教として強大な力を持つようになった。

 白衣を着て、鈴と数珠を持った富士講の行者と称する者が江戸市中を歩き回って、病人に加持(かじ)祈祷をしたり、おふせぎ(!!!!)といって呪文を書いたお札を売りつけ、富士の霊水などという水を飲ませたりした。こんなものでも、効くと思って飲めば効力が現れ、争って求める者も出てくる始末であった。

 冨士講が盛んになると、富士山麓の町や村は栄えた、特に、富士吉田は江戸からの富士登山路としてはもっとも都合がいいということもあって、たいへんな栄えようであった。富士講には独特な組織があった。浅間神社の下部機関として御師(おし)があり、実際上、富士講をとりしきっていくのはこの御師であった。

 御師は神職として宿坊を兼ねていて、吉田口、船津口(河口湖口)、大宮口、須走口などの登山口には、あたかも大名の屋敷かと思われるような大きな邸宅が軒を連ねていた。邸宅といっても、御師が生活するのためのものではなく、主として信者のための宿坊であった。諸国からやってきた富士講信者(中には信者でない一般登山者もあった)たちは、まず御師の家の門をくぐって、清水で足を洗い、庭の滝でみそぎをしてから、御師のお祓(はら)いを受け、そして翌日には、強力を伴って登山するのである。

 なにしろ、登山期は夏の二ヶ月間と決まっているから、この間の混雑はたいへんなものだった。各御師は、ここを先途(せんど)と稼ぎまくったようである。信者や客の奪い合いがこじれて、登山口間の悶着や御師と御師の間の勢力争いもあり、信者間の角つき合いもあった。なにしろ「江戸は広くて八百八町、富士講は多くて八百八講」と謳(うた)われたほど、多くの富士講が江戸市中にできていた。講には先達があり、この先達が、富士山麓の御師とそれぞれつながりを持っていた。

 各登山道の入口には、役銭(入山税)を取り立てるところがあった。それも一箇所ではなく、なんだかんだと口実を設けて銭をせびる者があって、登山者を悩ました。また、登山道には茶店や石室が目白押しに並んでいて、法外な茶代や宿泊料を要求したので、登山者の不評を買った。「富士山に二度登るばか」という言葉はすでに江戸時代からあったようである。

 やっと頂上について、いざお鉢巡りを始めると、あちこちに、木や石の神仏の形をしたものを置いて、その前を通過する者から、お賽銭を強要する、なかばごろつきに等しい行為をするものさえあった。こんな不愉快な環境下で、なぜそれほど多くの人が富士山に登ったのであろうか。それは多少の不愉快なことがあってもそれ以上に得るものがあったからである。

 登山宗教は富士山に限らず日本各地に古来からあった。男子は一四歳になると、先達に伴われて、近くの霊山へ登山し、無事帰宅すると、「おかげさまでうちの子も一人前になりました」と赤飯を炊いてお祝いをしたものである。日本人の山に対する信仰の心は、すなわち自然に呈する感謝の精神であり、農耕民族、特に米によって生きる日本人にとって、水は最も大切であり、その水の資源にとなる山に対して敬虔な祈りをささげるのは、むしろごく当たり前のことであろう。

 だが、幕末における冨士講は少々異常であった。これは伊勢神宮はへのおかげ参りのばか騒ぎとも通ずるものがあって、沈滞しきった幕府に対する庶民の一種の抵抗運動とも見なされるべきものであろうか。政治への不信が講という小集団を形成し、人生の希望を富士信仰に求めようとしていたのかも知れない。この富士信仰の隆盛を幕府は黙って見てはいなかった。何回となく弾圧の手を下したが、富士講を禁止することができずに維新を迎えた。

     新田 次郎著 山のエッセイ「富嶽三十六景」小学館 1997年5月20日
  
2006年3月1日から
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