島薗進による死生学のラジオ講座。島薗の著作はこれまでに『日本人の死生観を読む』や『ともに悲嘆を生きる』を読んできた。幅広い知識と含蓄のある文章に惹かれる。彼は私の死生観を大きく変えた『親と死別した子どもたちへ』の監修者でもあり、面識はないけれど遠くで恩を感じている。声を聴くのは今回が初めて。
宗教の影響力が衰えた現代では「死の教育がない」という指摘。
私の場合、十代の間、姉、母方の祖父、父方の祖父母、同級生、同級生の親、など、死別体験は多かった。本書の言葉を借りれば、一人称の死より二人称の死が大きく私の心を広く覆っていた。自分の死を意識する前に、大切な人との死別があった。
でも、両親も葬儀を司った僧侶も「死とは何か」は教えてくれなかった。とりわけ、自死で亡くなった姉の死については、両親は口を閉ざしたままだった。
アルフォンス・デーケンの名前を聞いた。彼の著作は、グリーフケアの観点で読んだ。この講座が終わったら死生学についても読んでみたい。
デーケンが幼少時に妹を亡くしたときの様子は、映画『ディア・ファミリー』の原作だけに書かれていた、皆が「うるわしの白百合」を歌いながら看取った場面を思い出させた。
番組を聴く前に、映画『生きる Living』を観ておいた。番組でも紹介されていた。
一度、死を意識したことがある。睡眠時無呼吸症候群かもしれないと言われたとき。そのときは、どうしたらいいか、まったくわからなかった。
少なくとも残りの人生を「よく生きよう」とは考えなかった。いまでも、もし余命を宣告されても、特別なことはしないと思う。いまの暮らしをそのまま続けたい。人のために何かしようとはきっと思わないだろう。
それだけ「今」が充実していると言えるのではないか。あるいは単に独善的なだけか。
だから『生きる』のテーマである「死を意識してよく生きる」という心境は、正直、私にはピンと来ない。
この作品では生きる意味は「何かを作り、残すこと」にあるように描かれている。たとえ何も作らなくても、残された人の思い出に残るだけでも生きる意味はあると私は思う。
この作品は読んだことがある。言葉にできない大きな衝撃を受けた。ずっと前にハンセン病患者の書いた随筆をまとめて読んだことがあった。そのときも衝撃を受けたけど、『いのちの初夜』はそれ以上の衝撃だった。
絶望の果てに「いのち」がある。そういう意味ではシオランのペシミズムや、帰る宛てもない強制収容所で暮らした石原吉郎の絶望に通ずるものも感じる。ただ、社会からの隔離と差別の存在が大きく違う。
病者の絶望は病だけに起因するのではない。家族からも離され、故郷からも遠ざけられ、一人、施設に置き去りにされる絶望は並大抵のものではない。
そんな絶望の果てにさえ「いのち」を見出したことに私は驚嘆せずにはいられなかった。
前回の感想で、余命を宣告されてもいまの暮らしを続けたい、と書いた。いま考えると、そもそも余命を宣告されて正気でいられるだろうか。そんな強さが私にあるとは思えない。
「意志の大いさは絶望の大いさに正比する」という言葉が引用されていた。病者の絶望と意志の強さに応答する言葉を私は持っていない。
第4回 カミュ『ペスト』
第5回 高見順『死の淵より』
さくいん:NHK(ラジオ)、島薗進、死生観、悲嘆(グリーフ)、自死、アルフォンス・デーケン、北条民雄、シオラン、石原吉郎