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分析化学/化学分析を延々と語る (No. 1-5)

これ以後の記事インデックス

5.分析関連学会の聴き方(2003/7/13)
4.グレガリナさんの農薬分析論(2003/6/14)
3.いま分析は、どんな風に面白いか---結論編(2003/5/25)
2.「分析屋」クロやんさん(2003/5/10)
1.いま分析は、どんな風に面白いか(2003/5/3)


5.分析関連学会の聴き方(2003/7/13)

 あらゆる学問領域には学会があって、それぞれ学術講演会や発表会が開かれているが、その中で分析に関する学会は、「聴くだけ」の参加者が多いのが特徴ではないだろうか。自分自身が研究的な仕事をしていなくても、試験室での実務に携わる人にとって、学会での情報収集は役に立つ。

 上手な学会発表のしかたについての方法論は見かけることがあるが()、聴き方については見たことがないので、ちょっと考えてみた。

 私が職業として分析を始めたころ、最初に出席した学会は、 日本食品衛生学会の学術講演会だった。正直なところ、わけがわからなかった。教科書に載っていない耳慣れない言葉がやたらに出てくると思った。かろうじて頭に残ったのは、色々な発表で何度も出てきた「エクストレルート」という言葉だけだった。

 今から思い返せば、耳慣れない言葉のかずかずは、商品名だったのだ。「エクストレルート」も商品名だった。当時、普及し始めたばかりで、注目されていたのだ。その後、食品衛生学会以外に、日本薬学会の衛生化学部会、公衆衛生協議会、環境とトキシコロジーフォーラムや、国衛研や地方衛研の化学系研究者が集まる全国衛生化学技術協議会等に参加してきた。そしてだんだんと分析関連の学会発表には、やたらに商品名が出てくることを学習した。商品名はたいていはカタカナで、最初に聞いた時には何のことか見当もつかない。しかし、慣れてしまえば何も難しくはない。

 それから、新規な分析機器や器材が続々と出てくることも、ほどなく学習した。それぞれに原理や特徴があり、全部をきちんと把握するのは容易ではない。単に名前を覚えるだけでも一苦労だ。目が回るほどで途方に暮れたが、やがて、多数出てくる新規な方法の中で、ルーチンに取り入れられて生き延びていくものはほんの一部だということに気が付いた。分析機器・器材メーカーの経営努力として絶えず新規製品が開発されるが、実際にそれらがルーチン現場のユーザーに受け入れられて広がって行くかどうかは、開発者にとってさえ未知なのだ。そして、市場投入の初期段階では、メーカーは影響力の大きそうな研究機関との共同研究を行って認知度を高めようとするし、研究機関の側も、研究テーマが得られてメリットがある、そういう事情によって、学会発表に登場するのは新規なものの比率が高くなる。

 私は衛生化学系統の分析に携わって17年目だが、この間に普及した新技術でルーチンに必須となったものは「GC/MS」「キャピラリーカラム」「固相抽出」「オートサンプラー」、それからやや格落ちするが「フォトダイオードアレイ」、この5つだと思う。どれも、研究ネタになった期間は非常に短く(オートサンプラーは全くネタにならなかった)、急速に普及して分析の効率を飛躍的に向上させた。本当に有用なものは、あっという間に広がるので、ダラダラと研究のネタにならない。

 そういうわけで、新規手法や商品名にあまり惑わされず、自分の試験室に取り入れた場合、どんな効果がありそうか、どれくらい場所を取るのか、メンテナンスに手間取る部分がないか、ランニングコストは高くないか、どうしても必要なものか・・・等、心の中で想像してケチをつけながら聴くくらいがちょうどいいと思っている。

 分析関連学会に参加する目的として最も重要なのは、近い将来、自分が新しく分析することになりそうな物質がないかを探ることだ。そして、それらしき物質が発表の中に出てきたら、どんな機器で分析するのか?標準品は入手しやすいか?分析が困難な性質でないか?等を注意深く聞いておく必要がある。

 あと、余裕があれば学会の収穫にしたいのは、常識・小ワザ・アプローチだ。

 分析というものは、科学でありながら、行政や市場や市民運動等(くだけた言い方をすれば、世間)との関係が深い。そして、科学に100%ということはまずあり得ないので、仮の到達目標を世間が決めてくれる部分がある。ある物質を同定するために、2種類のカラムでGCをすればいいだけだった時代もあり、GC/MSで確認したと言えばいい時代もあり、さらに、質量スペクトルの各ピークの強度比が何%以内で一致したかまで述べなければならない時代もある。自分のいる分野で、どのあたりが常識になっているのか、学会発表を聴いておけば、だいたい把握できるだろう。

 小ワザとは、分析操作上のちょっとした注意点など。これは、発表の本論だけでなく質疑応答の中で演者や質問者から出てくることも多い。アプローチとは、ある分析法を確立するまでに、どんな試行錯誤があって、どんな手順で条件を決めていったか。演者によって個性があり、うまいやり方よりもまずいやり方のほうが反面教師として参考になったりする。

 以上、まとめれば、新しい分析手法や商品名に惑わされずに、自分の試験室に取り入れた場合どうなるかシミュレーションしながら聴き、新しい分析対象物質には鵜の目鷹の目で注意を払い、常識・小ワザ・アプローチを自分のものにする、これが今のところ私の心がけている分析関連学会の聴き方だ。もちろん、人によっていろいろな聴き方があるから、この文章はほんの一例でしかない。それから、学会発表を理解するためには、日頃から分析化学と化学一般と分析対象分野の基礎的勉強をしておかなければならないことは、言うまでもない。


4.グレガリナさんの農薬分析論(2003/6/14)

 農薬のお話は、農薬に興味のある方ならプロ・アマ問わず面白く読めるユニークなサイトだ。作成者のグレガリナさんは、某化学会社に勤める研究者とのことだったが、この5月頃から某化学会社に勤めていた研究者と書き換えられた。自己紹介の中の話半分のつまらない自慢を読めば、定年を迎えられた世代の方かなと憶測される。どんな分野の研究者かは明記されていないが、少なくとも方法論として分析化学を用いる研究であることはわかる。

 グレガリナさんのページを紹介する言葉としては「挑発的」が最もふさわしいと私は思っている。彼の主張内容についてコメントはしない。また、ここで紹介したからと言って、「農薬のお話」に書かれていることがすべて科学的に妥当であると私が保証したように思われても困る。(私のページを読みに来る方は、自分で判断できる方ばかりだと信じている。)以下に書くのは、ちょっと変った「農薬のお話」の読み方。実は、農薬を分析している者にはじーんと来る記述がけっこうある。

 私が一番好きなページは、ダイホルタンのリンゴでの残留分析の問題点 だ。この文章には惹きつけられる。たとえばこの部分。

リンゴという果実には別の特殊性もある。散布時に果梗基部(果実の上のくぼみ)に溜まった農薬が芯の部分に移行しやすい。同じバラ科のナシでは果梗基部のクチクラ層が厚いためにこのような現象はない。この原因に,リンゴが偽果でありカキのような真果とは可食部が異なることがある。カキの可食部は全て子房が発達したもので,リンゴでは芯の部分の種を囲むやや堅い部分に相当する。縦切りにしたときに中央部にある色の少し濃い部分で,その外側の可食部は花床の発達したものである。果梗基部から侵入した農薬はこの花床と子房の境目の上部に分布することが多い。

という感じで延々と、リンゴという果実にどんな特質があり、従って残留分析にはどんな注意をすべきかが論じられる。こういうディテールまで述べても、喜んで読む人が果たしてどれくらいいるだろうか。たいていの人は、

異常なほど細かな点まで書いたが,結論は「リンゴではカプタホールの残留分析は難しい」である。

まで読み飛ばすのではないか。でも、私はこういうくどくど書かれた話が好きだ。つい、味わいながら読んでしまう。

 同様の感動があるページを挙げると
  分析機器をブラックボックスのように考える風潮が瀰漫している
  なぜ,キュウリでディルドリンやエンドリンが頻繁に検出されるのか
 所沢ダイオキシン報道騒動;素人はこれだから困るよ

 グレガリナさんがどういうタイプの分析をしているかは、01/04/15の巻頭閑話「農薬の残留分析法」で端的にわかる。彼は環境省の定める農薬の作物残留分析法をすなわち「公定法」と呼んでいる。つまり、農薬の開発段階で分析してきたのであり、私のように流通段階の農作物を分析してきた者とは、それなりに感覚の違いがある。
 私にとって「公定法」は、食品衛生法に基づいて厚生労働省が告示する分析法だ。農薬会社が行う分析との違いは、散布履歴のわからない農作物が対象という点。わかっていれば個別農薬に最適な分析法を追究していけるが、わからないと、まずは最大公約数的な方法を追究することになる。そういう立場だった者としては、グレガリナさんのように個別農薬を念頭に置いた分析のみの話は厳密で新鮮に写る。

 分析屋として期待してしまうのが 基礎編3 農薬の代謝と残留のような項目。特に 残留分析法の話あれこれ(1);残留分析値の0.1 ppmは100 ppbではない なんてタイトルのページは、当然「残留分析法の話あれこれ(2)・(3)・(4)・・・」と続くものと思っていた。けれども、いまだに公開される気配がない。ここだけでなく、「農薬のお話」は、全体としても予告だけで本文のない記事のほうが多い。開設された4年前から予告し続けているということ。

 グレガリナさんの主張の核心は「日本人は農薬を『けがれ』と考えるから、定量的な評価をできず、如何に少量でも摂取すべきではないとの妄想にとらわれている」だが、最近は一般人にも「リスク分析」「リスク評価」「ゼロリスクは神話」などの言葉が浸透しつつある。もう少しペースを上げないと、完成前に主張内容が世の中の動きとずれてしまうのでは?と私は勝手に心配している。

 ところで、「農薬のお話」には、私がイニシャルで登場しているページが一か所だけある。見つけるまで読みこんだ人は偉い。

2003/6/29 追記 グレガリナさんが定年を迎えられた世代かもしれないと書いたが、実はもっとお若い方かもしれない。それから、研究テーマの中で分析化学が占める比率は、ここで紹介した印象よりも、もう少し低いかもしれない。


3.いま分析は、どんな風に面白いか---結論編(2003/5/25)

 私は薬学部出身の分析屋なので、人の生命や健康に影響を与える(と考えられる)物質ばかりを対象にしてきた。それも、生命や健康に有用な物質(医薬品など)を作り出すためではなく、それらの物質をうまく使いこなすのを目的にした分析をしてきた。この話も、そういう分析を念頭において書いている。(一部は、もっと広い範囲の化学分析にも当てはまるかもしれない。)

 私と同業で歴史のある分析機関に在職している方なら、年長の大先輩から60年代、70年代の武勇伝を聞いたことがあるだろう。PCB、カドミウム、残留性有機塩素系農薬等の分析依頼が殺到して、24時間体制でガスクロを稼動させ、一ヶ月家に帰らなかったとか、連日マスコミが分析値を報道したとか、著名な政治家と直接話をしたとか。当時は、分析機器も職員数も十分でない機関が多く、今では想像できない苦労が色々あったようだ。

 そのような方がたの働きによって、農薬の登録保留基準や残留基準が整備され、POPs規制が進んできた。化学物質の安全性に対する国民の関心が高まり、公的・民間の分析機関が充実し、分析に携わる人も飛躍的に増えた。大学の研究者も増えた。そして私が採用された頃には、社会的に注目される事件の初期段階に自分自身が関わるような機会は、さほど多くなくなっていた。つまり

 個々の専門家にとって、化学分析で何らかの社会的な問題を発見する機会は減った。

と言える。問題が少なくなり、専門家が増えたのだから、当然のことだ。

 問題発見型の仕事にはロマンがある。ドラマがある。NHKの人気ドキュメンタリー「プロジェクトX」にも似た世界だ。しかし今や、分析の世界で一昔前のようなドラマに遭遇することを期待しても、結局リタイアまで遭遇できない可能性すら高いだろう。替わって現在は、問題整理型の仕事の比重が大きくなっていると思う。既にわかっている問題が蓄積し、複雑化し、定型的な分析が多くなったからだ。その中で

 分析の真髄はルーチンにあり

と私は考えるようになった。新しい問題が発見された場合、当初は分析法も手探りで構築されていくため、ルーチンと言えるほど定型化しない。規制が整備され、分析が何回も繰り返されるようになると、ルーチンとしての分析という新たな局面に入る。

 これからは、ルーチンを科学すること、その第一歩として、今まで見過ごされてきた現象を数値化することが重視されていくのではないか。例えば、分析コストや環境負荷の問題。分析の目的に照らして過剰な精度を追求してコストをかけたり廃棄物を増やすのは得策でない。人の健康に関わることとなると「現代の科学技術でできる限りの精度と感度を追求せよ」となったり、あるいは逆に行き過ぎたコスト削減圧力が掛かる場合があるだろうが、分析担当者は、分析精度の向上と引き換えにどんなコストや環境負荷が予測されるかを説明できるよう努力すべきだと思う。

 例を挙げると、「この前処理では精製が不十分だ。クロマトグラフに悪影響がある」などと言われるが、その基準はかなりあいまいで、経験則に拠っている場合が多い。「悪影響」を数値化できないか。精製不十分なものを何回注入したら、インサートがどの程度汚れ、ピーク形状がどの程度崩れるのか。それは、分析目的に照らして容認できる影響なのか。インサートやカラムを交換する費用と手間を、前処理の省力化によるコスト削減と対比できる数値に変換できないか。

 ルーチン分析の中には、このように、まだ数値化さえできていない問題が山積している。

 そしてこれにまつわる課題としてQAがある。Quality Assuranceの訳語として「品質保証」を使うべきか「信頼性保証」を使うべきか判断しかねるので、QAとしておく。

 QAは日本型の組織になじまないと言われることがある。日本の試験室は欧米のようにテクニシャンが雇用されている場合が少なく、学歴が高い分析専門家が多い。SOPなど無くても、その都度最善の判断ができると期待される傾向がある。しかし私は、QAの浸透によって、やっとルーチンを科学する条件が整うと思っている。学会や論文で発表される数多い分析法は、実際どの程度他の分析者に取り入れられ活用されているのだろう?今までは、それを検証するのは非常に難しかった。QAによって、現場で繰り返された分析法がどんなものなのか文書化され、検証の可能性が開ける。そして、検証できるということは、より質の高い分析につながっていくだろう。

 反対に「GLPにもISO9000にも、とっくに対応済み」という機関も多くなってきたが、QA対応は始まりであって終わりではない。外形を整えた後に、いかに中身を確かなものにしていくかが重要だ。

 ルーチンを行うことで実験室は小さな工場になる。日本がこれだけ経済発展を遂げたのは、工業製品の品質の高さが世界に認められてきたという理由が大きい。質の高い分析値を生産する体制を作っていくこと、そのための共同作業は、実は日本人の得意なところではないかと思う。新しいドラマが生まれる素地も十分にあるだろう。

 ところで認識しておいたほうがいいのは、上記のような面白さは専門外の人には理解されにくいということ。一般の人に正しく知ってもらう努力も大切だが、専門家どうしの良好なコミュニティを保って、まずはその中で評価しあえる環境を求めていきたい。専門家の数が増えて多様な人材が集まるようになった今、そういうことが可能になったと私は考えている。そしてもう一つ。やはり分析というフィールドにいる限り、自分が新しい社会的な問題を発見する可能性はゼロではない。その可能性も、常に忘れないようにしたい。

(この記事は、いま分析は、どんな風に面白いかの続きです。)


2.「分析屋」クロやんさん(2003/5/10)

 クロやんさんは、一年前に四国地方の某県衛生研究所を退職された方で、本名は「黒○ ○○」とおっしゃる。在職中から県の薬剤師会誌などで盛んに執筆活動をされていたが、退職を期に、書き溜めた文章をまとめて自費出版されるとともに、ホームページを開設された。37年間にわたる分析化学での蓄積の深さは、私などがここで簡単に紹介しては失礼なほどだ。ぜひ、ホームページを訪問してみてほしい。

 クロやんさんの語りは、「分析屋」としての自負心の披瀝から始まる。 「精緻なるロマンを求めて」と題する随想集の冒頭はこれ。

 私の仕事は、『分析屋』である。
(註)「分析屋」とは、食品、薬品、家庭用品、水道水、温泉水などから、どんな化学物質がどれだけあるのかを、化学分析によってppm単位で測定すること。
(中略)
 しかし近頃では、この分析なる仕事に愛着を持つようになってきた。というのも、未知なる物質を探り当てるという、多分に夢とロマンに満ちた、仕事にちがいないからである。

 目次で最初のほう(ここここ)に並んでいる記事は、「○○県衛生研究所って、こんなことまで面倒みてくれるの?」と驚くような話ばかり。家族関係や上下関係のもつれから、しょうゆや味の素に変な味のもの(でも無害)が入れられていた。それらの鑑定結果に関係者はどう反応したか?とか。花も恥らう乙女の寝具に付いていた怪しげなシミの正体は・・・?とか。警察は相手にしないような事件を、地元の分析屋が解決する短編小説仕立ての話で、全部オチがある。次々と読みたくなる。(もちろん、すべてクロやんさん自身が分析を手がけた実話。)

 でも、分析屋仲間として感銘を受けるのは、 第三章あたりの中身の濃い逸話。特に、「28.残留農薬物語」の、まだ日本中にECD-GCが数えるほどしかなかった時代に、クロやんさんが○○県における残留農薬分析遂行のため、放射線取扱主任者試験を受験されたくだりなど。

 昭和43年も終わろうとした12月の始め、一通の主任者免状が送られてきた。私の心は安堵した。この時、私以上に喜んだのは、A所長ではなかったろうか。
 「これでガスクロマトが動かせるね」
 役者の団十郎を思わせる大きな目玉を開いて、言った言葉が、印象強く思い出される。

 農薬分析の黎明期の興奮、初々しさが目に浮かぶようだ。

 「23.サッカリン分析法研究」「26.チクロ旋風」なども、読み応えがある。食品衛生の歴史でもあるし、分析化学がどのように社会的要請に答えてきたかがリアルにわかる。

 これらの記事は、今すぐホームページで読めるのだが、せっかく出版されているので、このページの「☆お知らせ」に書いてある方法で本を入手して読むのがおすすめ。本は縦書きで読み易いし、それに県名その他の固有名詞(クロやんさんの氏名も)がほとんど実名になっているから、迫力が違う。

 なお、クロやんさんのホームページには掲示板もあり、色々な方が訪問してきている。こういう個人的な活動の積み重ねから、専門外の方たちにも分析化学の面白さが伝わっていくのではと期待する。それから、 エッセィ風きまぐれ日誌では、私のホームページの紹介や前回の記事への感想を書いてくださっている。(4月17日付けと5月4日付け。)そちらに書かれているとおり、私は、クロやんさんが昭和62年に「ワープロ随想 精緻なるロマンを求めて」を出版された時以来、伊藤誉志男先生(当時の私の上司、その後、今春まで武庫川女子大学薬学部教授)を仲立ちとしてお見知りおきいただいている。

(クロやんさんは私より20歳以上も年長で多大な業績をお持ちの方なので、本来は実名に「先生」を付けてお呼びし、もっと丁重な書き方をしなければならない。でもあえて、このページ流の文体で紹介させていただいた。)

 2003/6/22 追記
 クロやんさんの掲示板は、クロやんの「新掲示板」に引越しされました。


1.いま分析は、どんな風に面白いか(2003/5/3)

 世の中には、くどくど説明しなくても、確かに誰が見ても面白そうに映るものがある。たとえば、謎を解くとか未知のものを発見するのは、面白いことに違いない。分析というものは、社会科学系まで含めれば非常に幅広いし、測定とか観測とか調査とかといった似たような活動まで合わせれば、ほとんどすべての謎解きや発見は分析めいたもの抜きにはあり得ないことになる。だからまず、こんな風に考えられる。

 分析によって、何か新しいことがわかるから面白い。

 科学者として駆け出した頃の私も、漠然とこのように考えていた。大学院では有機合成を専攻してNMRやMSや液クロなどを使ったが、それらは、新しい反応を発見するための道具でしかなかった。衛生試験所に採用された当初に与えられた仕事は「農産物に使用されたポストハーベスト農薬は、保存や調理によってどの程度減るか探る」というもので、これも、普遍的な現象を抽出するために分析を使うものだった。

 でも、こういうのは、分析そのものが面白い理由にはならない。面白いのは目的のほうであって、「有機化学は面白い」「食品衛生は面白い」「環境科学は面白い」等々となる。

 その次に私が体験したのは、コンビニ弁当から高濃度のフタル酸エステルを検出して、日本中の弁当製造現場や給食調理施設の手袋が変更された一件だった。非常に責任が重く、影響を受けた方たちのことを考えると軽々には言えないが、

 自分の出した分析値が、社会を変える場合がある。

 これは、分析をする者にとって、自分の存在意義を認識しなおし、もっと技量を高めなければと自戒するきっかけにもなるほどのことだと思う。

 しかし、この頃には私も分析でそれなりの年季を積んできていて、苦い現実に気が付き始めていた。ありていに言えば、自分の分析対象や分析値に実態以上の価値を持たせようと、不誠実な努力をする『専門家』が存在するのではないか?と疑うようになっていた。具体的にどんな事例があるかを書くのは私のページの意図を超えるから、そんな例が思い当たらない方は中西準子のホームページ市民のための環境学ガイドで、ダイオキシンや環境ホルモン関連の記事を読まれたらいい。

 そういうわけで、今の私は、「分析値で社会を変える」ことにも主要な興味はないのである。もちろん、本当に重要な分析値が得られる可能性も常にあり、たまたま自分がそういう分析を担当した場合にはその意味を見逃さないよう、分析者は日頃から研鑚すべきではある。そのとき、「○○から××が出た」と騒ぐだけでなく、「○○中の××は、喫煙や交通事故や天然由来の発ガン物質と比べてどの程度危険か」をきちんと説明できるのが理想だと思う。(難しいことではあるが。)

 それから、素人同然の頃から持っていた淡い期待で、だんだんと砕かれてきたものがある。

 何か新しい分析法を発見できるのではないか。

 ということだ。しかしこれは、ますますメーカー主導の世界になってきたと感じる。新しい分析原理の発見は機械工学の独壇場になってきて、ふた昔前のように小さな実験室で呈色とか比色とかを検討するような時代でなくなった。クロマトグラフィーも、分析者が自分で充填剤を詰めることはなくなり、カラムメーカーが出荷した製品をそのまま使用する。前処理も固相抽出の比重が増し、「○○分析用の××ミニカラム」なる製品が色々と発売される。こうなると、分析ラボでの工夫の余地は、どの会社のどの製品を使うかといったことだけになり、製品情報の収集と検討に追われることになる。(実際、追われると表現していいほど製品情報は膨大だ。)

 では、今や分析は、分析機材メーカーで機器やカラムを直接いじれる研究者にしか面白くないものなのか?そんなことはない、と書くつもりだったのだが、長くなりすぎたので、また何週間か後に続きを書くことにする。分析の新人の方がもし読まれていたら、ここまでの話を真に受けて失望せずに、続きを読むまで待ってほしい。(とりあえず自分でこの続きを考えてみるのも有意義だと思う。)

 2003/5/5 追記
 この文章に対する感想を、元地方衛生研究所職員のクロやんさんが書かれました。活躍された時代背景が私とは少し違いますから、ややニュアンスの異なる捉えかたになっています。読み比べれば、新しい発見があるかもしれません。掲載場所は、このページの5月4日付け記事です。


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管理者:津村ゆかり yukari.tsumura@nifty.com