作成日 2003年4月2日 最終更新日 2003年8月4日
フタル酸エステル類は、塩化ビニルを柔らかくするために加えられる物質です。いろいろな種類があります。内分泌かく乱物質(環境ホルモン)問題で注目されましたが、実はどんな物質なのでしょうか?
コンビニ弁当から始まったDEHP問題を振り返る
フタル酸エステルQ&A
DEHPと内分泌かく乱性
微量フタル酸エステル類の分析法(2003/8/4作成) New
私が関わった研究の概要
厚生労働省(旧厚生省)が発表した資料
米国及びEUにおけるDEHPのリスク評価
「塩ビ手袋・コンビニ弁当・フタル酸エステル」という三題話みたいな物語は、私の国立衛研在職中で一番社会的な影響の大きかった仕事です。
1997年、日本で内分泌かく乱物質(環境ホルモン)問題が関心を集め始めました。98年には経済対策の一環という意味もあって、関連分野に大型の研究予算が認められました。その一つが、国衛研の豊田正武食品部長(当時)を分担研究者とするフタル酸エステルの食品中残留実態調査でした。この研究班は市販弁当・陰膳・乳製品・肉類・魚類・野菜・果実・精白米134検体中のフタル酸エステル類を定量しました。99年春に刊行された報告書には「特に弁当類ではDEHP濃度が高い傾向がみとめられた」と書かれています。DEHPはフタル酸エステルの一種で、生産量も使用量も最も多い物質です。濃度は、市販弁当15検体の調査結果として、DEHP 54〜1220ng/gでした(文献1)。これはその後に出たデータよりかなり低い値です。報告書中に、分析精度に疑問のあるデータは除外したとされています。この研究班に参加した北海道衛研のグループは、同時期の弁当中で「6080ng/g」というデータを道衛研所報に発表しています(文献2)。
DEHPの実態調査は、大阪支所の外海泰秀食品試験部長を主任研究者とする研究班に引き継がれました。そして試験法の再検討と参加試験室間の外部精度評価を行って、分析法が確立したとき、「コンビニ弁当に含まれているDEHP濃度は相当に高い」という事実が浮かんできました。コンビニ弁当10検体中のDEHP濃度は803〜8930 ng/g。一方、食堂やレストランの定食10検体中ではDEHP濃度12〜304 ng/gでした。
しかし、相対的に濃度が高いというだけで即座に問題になるわけではありません。当時、厚生省の見解は「これまでのところポリ塩化ビニルから溶出するレベルのフタル酸ジエチルヘキシル等により人の健康に重大な影響が生じるという科学的知見は得られておらず、現時点において使用禁止等の措置を講ずる必要はない」(文献3)でした。
そこで、国衛研化学物質情報部(当時)から情報提供してもらったところ、従来の毒性評価で「コンビニ弁当を一生涯毎日一食ずつ食べた場合はEUの耐容摂取量を越える可能性もある」レベルであることが判明しました。ただし、EUの耐容摂取量というのはかなり厳しく定められているものであり、また、コンビニ弁当を一生毎日食べるという消費行動が現実的かとも考えられました。
とはいえ、厚生省はこの問題を重視し、当時の生活衛生局食品化学課は、大阪支所に対して原因を究明するよう指示しました。2つの大手弁当製造会社の工場に立ち入って製造段階の食材を採取したり調理工程を写真撮影することになりました。
研究班員数名でコンビニ弁当工場に行ってみて、たいへん徹底した衛生管理に感心しました。作業員は真っ白な上下の服を着て、使い捨ての帽子とマスクを着用します。帽子は、髪の毛が出ないように、ぴったり頭につく素材でできています。手洗いの手順が掲示されていて、そのとおり丁寧に手洗い。そして、塩ビ手袋をはめ、その手袋を消毒用アルコール(エタノール70%)でスプレーします。10人ほどの作業員が各1〜2種の食材を担当して、ベルトコンベアーに沿って並んでいます。そして、次々と流れてくるお弁当箱に、手で食材を詰めていきます。なぜ箸とかトングを使わないのかとも思いましたが、おそらく手でやるのが一番きれいに素早くできるのでしょう。
工場で採取してきた大量の食材を実験室へ持ち帰り、ひたすら分析しました。その結果、DEHPの混入源は塩ビ手袋であることが明白になりました。食材を手袋をはめてつかむ再現実験もしてみました。すると、消毒用アルコールのスプレーでDEHP溶出が大きく促進されることが判明。そういえば、工場の作業員たちは、作業開始時だけでなく、作業中もときどきスプレーしていました。少しでも微生物を減らして衛生的にという配慮からでしょうが、DEHPは増えてしまっていたのでした。
また、食材によっては消毒用アルコールを用いなくても高濃度の溶出が起こりました。「切干し大根の煮物」で一番よく溶出しました。DEHPは油に溶けやすい物質ですから、例えば「コロッケ」の方が多量に溶出しそうな気がします。しかし、意外にコロッケでの溶出は少量でした。(アルコールが無ければ。)
その後、この問題は権威のある先生方が何人もで審議をされ、その議事録はすべて公開されていますが、真面目な会議で「切干し大根」という言葉が繰り返され、「油揚げが入っているからDEHPが溶出しやすいのでは?」などと話し合われました。
コンビニ弁当の分析が一段落した後、一日摂取量の把握のために病院給食の分析もしましたが、病院でも塩ビ手袋が使われていたのでした。弁当のように食材をじかにつかむことは少ないので、弁当ほどの濃度ではありませんでしたが、調理の仕方によってEUの耐容摂取量を越えてしまう場合がありました。
厚生省は2000年6月14日に合同部会を開催して、DEHPの内分泌かく乱性については考慮する必要はないとして従来の毒性評価によって日本におけるDEHPのTDI(耐容一日摂取量)を決定しました。そして即日、弁当や給食を製造する事業者や各自治体に対して、この物質を含む塩ビ製手袋を調理目的で使うことを自粛するよう通知しました。
この問題は、その後のおもちゃ規制や食品器具容器包装規制の発端となりました。また、2000年当時はまだ環境ホルモン問題への関心もかなりあったため、「DEHPは環境ホルモンだから規制された」という誤解を生じがちで、マスコミがどう報道するかにも、たいへん気を使いました。一方で、真面目に勉強する市民の皆さんにとっては、内分泌かく乱性と言われるものが通常の毒性とどう違うのかを勉強する良い教材になったのではないかとも思います。
文献1 平成10年度厚生科学研究費補助金(生活安全総合研究事業)内分泌かく乱物質の食品、食器等からの曝露に関する調査研究報告書(主任研究者 斎藤行生)p.225,分担研究報告書フタル酸エステル等の暴露に関する調査研究(分担研究者 豊田正武)
文献2 高橋哲夫他「食品中のフタル酸エステル類の分析について」道衛研所報,49,119-122 (1999)
文献3 内分泌かく乱化学物質の健康影響に関する検討会中間報告書(平成10年11月)
(補足)なお、以上は研究班側から見た流れですが、行政の側はどのように対処したのかは、2000年6月14日の議事録で述べられていますから、引用しておきます。
○食品化学課長
それでは御説明をいたします。
昨年の暮れに,厚生科学研究をやっていただいている国立衛研の大阪支所のほうから,お弁当中にどうもフタル酸が非常に検出されるというような一報というか,非公式な連絡がございました。
その時点で,どういう原因といいますか,どういうところからこれが入ってきたのか,その原因がわかりませんでしたので,原因究明の検討を,実際に実験をやっていただいた大阪支所の外海先生,それから,工場などの協力も仰がなければいけないということで,大阪府と打ち合わせをいたしまして,原因究明のための調査を行いました。
その結果,どうも手袋らしいということがわかってまいりましたので,そのような段階で業界,これは今年に入ってからですが,業界のほうに,実際,塩ビ製の手袋がどのくらい使われているかとか,可塑剤としてどういうものを入れているかとか,他にどんな製品があるかなど事情を聞きました。
結果としては,実際には輸入の手袋が大部分であるということがわかってきたんですが,一方で,非常に大量にフタル酸ジエチルヘキシルが出ているということなんですが,実際それが安全かどうかということにつきましては,EUなどではTDI値を決めておりましたが,それが妥当かどうかとか,あるいは日本でどう考えたらいいかということをまず検討しなければいけないということで,それから分析のデータの確認,そういうことのために専門の先生方に集まっていただきまして,各国の文献,要するに評価文献,それから必要であれば原報などをお読みいただいて,特にDEHPについての毒性評価を検討する会を3回ほど持ちました。そうこうしているうちに,5月に,先の厚生科学研究の報告と,それから原因究明の報告書が提出されてまいりましたので,先生方お忙しいところ,日程調整がちょっと大変だったのですけれども,急遽お集まりいただいたということで,私どもとしては,関係の先生方の御協力を得ながら,問題の発見というところから最短の距離を走ってきたという感じでございます。
Q.フタル酸エステルやDEHPって何ですか
A.フタル酸エステルは、ポリ塩化ビニル(プラスチックの一種で、塩ビまたはPVCとも呼ぶ)を柔らかくする目的で主に使われる物質です。他に、溶剤等としても使われています。DEHPはフタル酸エステルの中で最も生産量の多いもので、正確な名称はdi(2-ethylhexyl) phthalateです。
Q.フタル酸エステルは、どこにでもある汚染物質ですか
A.そうです。特にDBP、DEP、DEHPは、空気や水道水にも、常に微量含まれています。私たちが分析した食品からも、必ずDEHPが検出されました。フタル酸エステルの分析に当たっては、試薬に入っていたり実験の途中で混入してくるフタル酸エステル濃度を差し引きますが、混入が多いと値が不正確になってしまいます。高感度の分析では、これをどう減らすかが非常に難しい課題です。
Q.DEHPを含む塩ビ手袋は、なぜ使用自粛が通知されたのですか
A.使用のしかたによっては、基準を越えるDEHPが食品に移行する場合があるからです。基準は厚生省生活衛生局食品化学課長通知(平成12年6月14日)で「当面の耐容一日摂取量(TDI)を40〜140マイクログラム/kg/dayとする」とされています。この量は、体重50kgの人の場合、一日当たり2000〜7000マイクログラムということです。私たちの調査結果では、病院給食21日分のうち2日分で2082及び2549マイクログラムのDEHPが含まれていました。(ただし全体の平均では519マイクログラム。)また、コンビニ弁当では、10検体中3検体で2758、3056、4306マイクログラムが含まれており、平均でも1768マイクログラムと、かなりTDIに近い値でした。高濃度が移行するのは、使い捨ての塩ビ手袋で直接食品にさわる場合です。移行量は消毒用アルコールを手袋にスプレーすることで大きく増えることから、アルコールとの併用だけ規制することも検討されました。しかし、油分と水分の多い食品(例:切り干し大根の煮物)を手袋で触った場合は、アルコールが無くてもTDIを越える溶出が起こったため、手袋そのものの使用自粛通知がなされました。
Q.なぜDEHPの混入源が塩ビ手袋とわかったのですか。
A.「市販弁当(いわゆるコンビニ弁当)におけるフタル酸ジ(2-エチルヘキシル)汚染源の究明」の研究要旨をお読みください。
Q.通知されたTDIは、なぜ40〜140マイクログラム/kg/dayと幅があるのですか
A.塩ビ手袋の使用自粛通知を出すために急きょ制定された「当面の」TDIだからです。このTDIの根拠となっている実験は2つあります。「40」に対応するのはプーンらによる実験で、ラットのオスでセルトリ細胞の空胞化(精子のもとになる細胞の一部に脂肪がたまる現象、自然の状態でもある頻度で見られるものですが、その頻度が高くなる)が起こる手前の投与量を、念のために100分の1にして求められています。一方、「140」の根拠はラムらによる実験で、マウスのメスに対して、妊娠率、胎児生存率、胎児重量の減少等が見られる手前の量を、やはり100分の1にして求められています。このうちプーンらの報告は、非投与群で空胞化率がゼロである(通常はゼロでないはず)等、疑問点があります。一方、ラムらの報告には疑問点がありません。このために、プーンらの結果を採用すべきかどうかの結論が出ず、「40〜140」という幅のあるTDIが定められたのです。以上の経過は、合同部会の議事録に書かれています。(文献:Poon, et al. Food and Chemical Toxicology, 35, 225-239 (1997); Lamb, et al. Toxicology and Applied Pharmacology, 88, 255-269 (1987))
Q.自粛以前に塩ビ手袋を使って調理された食事を毎日食べた場合、どんな健康影響があったと考えられますか
A.結論としては、健康影響があったとはほとんど考えられません。TDIはラットやマウスの実験結果から定められていますが、これらの動物と霊長類とではDEHPに対する感受性に大きな違いがあります。サルでは、ラット等よりずっと大量を投与しても何も影響が現れません。また、ラットに現れる影響は、「セルトリ細胞の空胞化」という、顕微鏡で見なければわからない程度の変化です。しかも、TDIはラットに影響が現れない量をさらに100分の1にして求められています。つまり、ラットの100倍の感受性を持つ人がもし存在した場合にそなえて、塩ビ手袋の使用自粛通知が出されたのです。これは極めて安全側に立った判断による措置です。
Q.塩ビ手袋からのフタル酸エステルの溶出について、他の研究はありますか
A.海外では塩ビ手袋からの溶出問題についての報告は見あたりません。日本で一番早く塩ビ手袋中のDEHPに着目した研究者は国立医薬品食品衛生研究所食品添加物部の河村室長らで、1999年8月刊行の論文で「塩ビ手袋中のDEHP含量は24〜38%(4検体)」と報告しています。また、同じ著者が、2000年10月刊行の論文で、「塩ビ手袋をナタネ油と接触させると大量のDEHP等が溶出する」と報告しています。(河村ら、食品衛生学雑誌,40, 274-284 (1999);同誌,41, 330-334 (2000) )
Q.日本人はどの程度の量のDEHPを食品から摂取していますか
A.病院給食一週間分を分析して推定したたところ、PVC製手袋使用自粛通知以前は一日519マイクログラムでしたが、通知後は160マイクログラムに減少していました。また、通知以前も、一般食堂の定食(10検体)ではDEHPの一食当たりの摂取量は40マイクログラムでした。
Q.諸外国におけるフタル酸エステル摂取量はどの程度ですか
A.英国農水食糧省が行ったトータルダイエット調査では、DEHPの一日摂取量は平均150マイクログラム、ハイレベル摂取者では300マイクログラムとされています。また、最近報告されたデンマークでの陰膳調査結果では、DEHPの食事中濃度は110〜180ng/g、一日摂取量は190〜300マイクログラムとされています。これらの結果と比べて、日本におけるDEHPの食事中濃度及び摂取量は高くありません。(デンマークの調査の出典:Petersen, et al. Food Additives and Contaminants, 17 (2), 133-141 (2000))
Q.DEHPは内分泌かく乱物質ですか
A.内分泌かく乱物質とは何かという定義自体が統一されていないため、難しい問題です。次の章で別途解説しました。
厚生省は、DEHPを含む調理用塩ビ手袋の使用自粛を通知した際、毒性評価を行いました。その中では、DEHPの内分泌かく乱性については考慮する必要はなく、従来の毒性試験の評価方法で判断して差し支えないとされました。
しかし、この評価文書はDEHPのエストロゲン活性のみを問題にしています。最近の内分泌かく乱物質研究においては、エストロゲン作用に限らず、幅広い内分泌系への影響を問題にしています。私も、消費者や業者の方たちからお問い合わせをいただきましたが、DEHPは内分泌系に作用するから内分泌かく乱物質なのではないか、との御意見もありました。また、この問題に関してはたいへん誤解が多いと感じます。そこで、簡単な解説をまとめました。
結論としては、「手袋中のDEHP」が「ヒトに対して」「内分泌かく乱物質」である可能性は低いと考えます。
【「内分泌かく乱物質」は仮説に基づく概念です】
「内分泌かく乱物質」というものが実際にあって科学的に確かめられていると思っている方が非常に多いようですが、これはまだ仮説です。コルボーンらが「奪われし未来」で提唱したこの仮説は、人間社会や野生生物において様々な生殖異常現象や性ホルモンの関係する疾病が起こっており、その原因が「内分泌かく乱物質」の概念で統一的に説明できる、という内容です。何を内分泌かく乱物質と呼ぶか、定義は色々出されていますが、ある物質が定義に当てはまるからといって、即座にその物質が「内分泌かく乱物質=人類にとって大きな脅威」ということではありません。各国政府がこの問題を取り上げた理由は、言うまでもなく、仮説の内容が重大だからです。定義に当てはまるか否かにとらわれるよりも、「奪われし未来」で挙げられたような異常現象(未発見のものも含めて)にその物質が関与しているのかどうかを考える必要があります。
【リストに載っている物質は「内分泌かく乱物質」と判明しているわけではありません】
業者の方から「当社の製品が環境ホルモンなど含まないことを証明したい。環境庁のリストに載っている物質をすべて分析してくれるところはないか」といったお問い合わせをいただきました。しかし、各種組織・団体から提供されているリストは、仮説を検証するための「候補」の物質に過ぎません。仮説というものは、真実かどうか検証しなければならないので、「これが内分泌かく乱物質ではないか」という候補が挙げられているのです。これらは「内分泌かく乱物質と判明した物質」ではありません。
【「低用量作用」とはどんなものか】
「内分泌かく乱物質」に関しては、これまで影響が無いとされてきた極微量でも作用があらわれる「逆U字特性」あるいは「低用量作用」が議論されています。このことから、内分泌系に作用する物質はすべて、ごく微量でもDES(ジエチルスチルベストロール)のような劇的な作用を示すと誤解される傾向があるようです。
まず、内分泌系に作用するものすべてに低用量作用が疑われているわけではありません。シャープらがフタル酸ジブチルにも低用量作用があると発表しましたが、これは著者自身が取り下げました。現在では、ボンサールらがエストロゲンについてのみ低用量作用を主張しており、国際的に議論が続いています。フタル酸エステルのような抗アンドロゲン作用物質に関しては、低用量作用を裏付ける報告はありません。
また、エストロゲンについても、低用量作用の内容が正確に報道されていないように思われます。ボンサールらの現在の主張は「低用量のエストロゲンによって、ある系統のマウスで前立腺の肥大が起こる」というものですが、否定する報告も提出されています。また、もしこれが本当だとしても、結果として健康影響(癌や生殖能力低下など)が起こっている証拠はありません。DESは低用量で作用が現れたわけではなく、妊婦に非常に大量に投与されたため、生殖器の異常などの被害を起こしました。
【水中の生物への作用は、ヒトに対する作用とは違います】
「内分泌かく乱物質」という概念は仮説ですが、水中の魚類や両生類に対しては、そのような物質が実在することがかなり明らかになってきました。人畜の尿由来のエストラジオール、また、ノニルフェノールやビスフェノールA等が都市部の河川において魚をメス化させているのではないかと疑われています。我が国においてこれらのどれが主因であるか、公式な報告はまだ出されていませんが、どれかが「内分泌かく乱物質」の働きをしているとの前提で調査が行われています。
一方、エストラジオールは河川以外にも放出されます。屎尿を肥料に使う地域があり、野生生物による排泄もあります。ノニルフェノールやビスフェノールAは食品関連のプラスチックからも微量溶出します。それでも、屎尿は問題にされておらず、食品関連プラスチックの規制も行われていません。これは、屎尿のエストラジオールやプラスチックのノニルフェノール等が現在の知見では野生生物や人に健康影響を及ぼしていると考えるには量が少なく、また、水棲生物のような感受性の高い生き物が対象でないからです。
水中に棲む生物は、エラや体表面からホルモン様物質を直接取り込むこと等により、哺乳類よりも影響を受けやすいのです。このような現象を的確に表すためには、例えば「水中エストロゲン」という言葉が適当ではないでしょうか。個々の物質の生体影響は、「場所・量・対象生物」ごとに分けて考える必要があります。
【DEHPはどんな物質か】
DEHPはラットやマウスに一定量以上投与すると生殖器に毒性を示します。その機構は「レセプターを介しない抗アンドロゲン作用」とされています。作用のどこかに内分泌系が関与していることはほぼ確実ですから、定義によっては「内分泌かく乱物質」と呼ぶこともできるでしょう。
しかし、仮説で問題にされているような「内分泌かく乱物質」か否かについては、用途ごとに分けて考える必要があります。調理用手袋由来のDEHPの場合、病院給食及びコンビニ弁当の一部で現在の基準を越えていました。しかし、上のQ&Aで解説したとおり、たとえ基準値を超えたDEHPを毎日摂取した人がいたとしても、健康影響があった可能性はほとんどありません。従って、「奪われし未来」が挙げたような異常現象の原因であったとは、まず考えられません。また、DEHPの生殖毒性は以前から広く知られている性質であり、これを内分泌かく乱性と呼ぶとしても、新しい毒性が発見されたということではありません。
なお、「病院給食からダイオキシンが見つかったそうですが・・・」と電話してきた方がおられました。フタル酸エステルもダイオキシンも同じリストに載っているため、混同されたようです。ダイオキシンやPCB、DDTは残留性や蓄積性が大きいために厳しく規制されています。ダイオキシン等とフタル酸エステルは、全く性質の違う物質です。
【結論】
「内分泌かく乱物質」の呼び方からは、どこにあろうが微量だろうがすべての生物にとって問題であると考えられがちです。しかし、健康影響が現れるかどうかは、他の毒性と同様、各物質が存在する場所・量・対象生物によって決まります。結論として、DEHPは、塩ビ手袋に含まれる量程度では人に対して「内分泌かく乱物質」の働きをしていたとは考えられません。
(注)
女性ホルモンの一種。女性を女性らしくするホルモン。
厚生省の検討会では「内分泌かく乱化学物質」の語が使用されていますが、この解説ではendocrine disruptor の訳語としての「内分泌かく乱物質」の語を用いました。
この説が仮説であることはあまり報道されていません。下記の公式文書で確認してください。それぞれの文書の冒頭に"hypothesis"または「仮説」の語があり、「仮説と照らし合わせてどうなのか」という視点で書かれています。
米国:環境保護庁の特別報告(1997年2月)(アクロバットリーダーが必要)
欧州連合:CSTEEの意見書(1999年3月)(アクロバットリーダーが必要)
日本:国立医薬品食品衛生研究所化学物質情報部
内分泌かく乱化学物質の健康影響に関する検討会
一例として、世界保健機関・国際化学物質安全性計画[WHO/IPCS]による定義を引用します。「内分泌系の機能に変化を与え、それによって個体やその子孫あるいは集団(一部の亜集団)に有害な影響を引き起こす外因性の化学物質又は混合物」(訳出:内分泌かく乱化学物質の健康影響に関する検討会中間報告書より)
2000年10月10日〜12日に開かれた米国NTPによるピアレビューでは、「いくつかの評価点について抗アンドロゲン作用物質の作用が示され、用量作用曲線は最小投与量においても直線的であった。(注:逆U字型でない。)ただし、レビューされた研究は、低用量作用を評価できるようにデザインされた研究ではなかった」と要約が発表されています。より詳しく知りたい方は米国NTPのホームページを参照してください。
DEHPは医療用途にも多く使用されています。DEHPと塩ビの組み合わせは、破れにくい、水を通さないなど、医療用具として優れた性質を持つ材料です。医療においては、人の生命を救うという目的から、副作用のある投薬や手術も行われます。医療における安全性は、食品の場合とは異なるレベルで論じる必要があります。詳しくは米国CERHRの報告書を参照してください。
一連の研究で用いたフタル酸エステル類の分析法のあらましは、次のとおりです。試料は主に、給食・定食・弁当などの一食分で、様々な食品成分を含むものを対象にしています。
この分析法は、いわゆる内分泌かく乱物質として関心を持たれていたフタル酸エステル類の摂取量調査のために考案されたものですから、非常に低濃度まで定量できる方法になっています。実験室内の空気等からフタル酸エステル類が混入することは避けられませんので、そのバックグラウンド値をコントロールするための方法を採りいれています。主な特徴は次のとおりです。
研究の主目的はフタル酸エステル類の摂取量調査でしたが、アジピン酸ジ(2-エチルヘキシル)も環境庁(当時)のリストに加えられていたため、当初から分析対象としていました。また、研究が進展した後には、塩化ビニル樹脂への添加量が多いその他の可塑剤についても分析対象にしました。この分析法で定量できる物質は下記のとおりです。
分析法は時期によって若干変更を加えました。詳しいことは下記の文献を参照してください。
平成11年度厚生科学研究費補助金(生活安全総合研究事業)
主任研究者 外海泰秀 国立医薬品食品衛生研究所大阪支所 食品試験部長
協力研究者 新潟県保健環境科学研究所、愛知県衛生研究所
掲載先 Food Add. Contam., 18, 449-460 (2001)
報告書要旨及び全文
研究要旨
フタル酸エステル類(PhE)の日本人における食物経由摂取量の推定を目的として、高感度分析法を作成し、食品汚染実態調査を行った。PhEは11種類を分析対象とし、アジピン酸ジ(2−エチルヘキシル)(DEHA)も同時に分析した。操作ブランク値を低減し、最もブランク値の大きいものについても概ね5〜20 ng/gの検出下限を達成した。本法により市販弁当・食堂定食・レトルトパウチ食品・病院給食の計84検体を分析した結果、弁当3検体、レトルトパウチ食品1検体、病院食2検体からEUの耐容1日摂取量(TDI:37μg/kg体重/day)を超えるDEHPが検出された。また、病院給食63食分(3施設で提供された各1週間分)中のPhE含有量から一日摂取量を試算した結果、DEHPが平均519μg(体重50kgのヒトのTDI比28%)、DEHAが平均86μg(同0.6%),DINPが平均62μg(同0.8%)であった.
平成11年度食品等試験検査費
国立医薬品食品衛生研究所大阪支所食品試験部
掲載誌 Food Add. Contam., 18, 569-579 (2001)
研究要旨
厚生科学研究費による実態調査の結果、市販弁当中のDEHP濃度が特に高かったことから、弁当製造工場への立ち入り調査及び採取試料の分析を行った.@PVC製手袋で箱詰め作業をした弁当からは,詰める直前の食材を大きく上回る濃度でDEHPが検出された.APVC製手袋を使用していない工場の製品及び手袋で直接触れずに器具を用いて詰められた食材(ポテトサラダ)は検出量が低かった.B工場で使用されていたPVC製手袋から重量比で41%相当のDEHPが検出された.C手袋で食材に接触する模擬実験において,DEHPの移行が確認された.移行濃度は消毒用アルコールの併用により上昇した.D手袋以外に、食材に接触するPVC製品が見当たらなかった。以上の根拠から、DEHP混入の原因はPVC製手袋である可能性が強く示唆された。
平成12年度厚生科学研究費補助金(生活安全総合研究事業)
掲載先 食品衛生学雑誌,42,128-132 (2001)
報告書要旨及び全文
研究要旨
調理用PVC製手袋の使用が規制されて2か月経過した2000年8月に,市販弁当(いわゆるコンビニ弁当)10検体中のフタル酸エステル類(PhE)11種及びアジピン酸ジ(2-エチルヘキシル)(DEHA)を測定し,規制前と比較した.各PhEの濃度は,DEHPが45〜517ng/g(平均198 ng/g),DEHAが不検出〜90ng/g,BBPが不検出〜10.0ng/g,フタル酸ジイソノニル(DINP)は1検体のみで検出され,その濃度は76ng/gであった.DEHP濃度は平均で前年調査時の22分の1に減少し,その他の化合物も減少した.DBPは全ての試料で不検出であった.
平成13年度厚生科学研究費補助金(生活安全総合研究事業)
主任研究者 外海泰秀 国立医薬品食品衛生研究所大阪支所 食品試験部長
協力研究者 新潟県保健環境科学研究所、愛知県衛生研究所
掲載先 Food Add. Contam., 印刷中 (2003)
研究要旨
DEHPを含むPVC製手袋を調理に用いることを自粛するよう通知されたことから,その影響を検証し,現在のPhE摂取量を把握することを目的として,11年度と同じ新潟・愛知・大阪の3病院の給食(各一週間分)を試料として再び摂取量調査を実施した.その結果,DEHPの一日当たり摂取量は3病院平均で519μg(平11)から160μg(平13)に大きく減少していた(69%減).DEHPと同時に可塑剤として使用される場合が多いDEHAの摂取量も86.4μgから12.4μgに(86%減),同じくDINPも62.1μgから2.4μgに(96%減),それぞれ減少していた.一方,DBPの一日摂取量は8.9μg,BBPは3.3μgであり,これらは平成11年度と大きな違いは無かった.DPrP, DPeP, DHexP, DCHPはすべての病院給食試料において不検出であった.体重50kgのヒトにおける耐容一日摂取量との比では,DEHPが約8%であり,それ以外のPhEではいずれも1%未満であった.
*これら以外にもフタル酸エステルに関する論文発表があります。誌上発表目録参照。
器具・容器包装、おもちゃ、洗浄剤に関するホームページ(平成15年8月5日公開) New
器具及び容器包装並びにおもちゃの規格基準の改正に関する薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会報告について(薬食審第0611001号、平成14年6月11日)
薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会毒性・器具容器包装合同部会報告について(薬食審第0529001号、平成14年5月29日)
薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会毒性・器具容器包装合同部会議事録(02/03/15)
薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会毒性・器具容器包装合同部会の審議結果概要(02/03/15)
01年07月の方針について、パブリックコメントを踏まえ、さらに審議されました。
「食品、添加物等の規格基準(昭和34年厚生省告示第370号)の一部改正(器具及び容器包装並びにおもちや)」に対して寄せられた御意見等について(平成14年5月)
01年07月の方針についてのパブリックコメント募集結果と回答
薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会毒性・器具容器包装合同部会の審議結果概要(01/07/27)
食品用器具・容器包装及びおもちゃについてDEHPとDINPを規制する方針が出されました。
食品衛生調査会毒性部会・器具容器包装部会合同部会の審議結果について(00/06/14)
DEHP濃度データの概要と関係機関に使用自粛を通知した文書等
食品衛生調査会毒性・器具容器包装合同部会議事録(00/06/14)
研究結果の詳細な報告、耐容一日摂取量の審議経過等
内分泌かく乱化学物質の健康影響に関する検討会中間報告書(平成10年11月)
フタル酸エステルに関しては、「現時点において使用禁止等の措置を講ずる必要はないものと考えられる」と結論づけられています。
Final
Phthalate Expert Panel Reports
米国国家毒性プログラム(NTP)の専門委員会ヒトの生殖に対するリスク評価センター(CERHR)による詳細な報告書
Opinion on
Phthalate migration from soft PVC toys and child-care articles
塩ビ製おもちゃについて、欧州委員会によるフタル酸エステル類のリスク評価
管理者:津村ゆかり yukari.tsumura@nifty.com