世に有名な川中島古戦場は,永禄 4年(1561年) 9月10日に行われた第四次川中島合戦で 上杉・武田両軍が死闘を展開した場所である。現在は
「八幡原史跡公園」 として八幡社 を中心にきれいに整備されていて広い駐車場と土産物屋が軒を連ねていた。国道18号線のこの辺りは若い頃から何回も通っているが,川中島古戦場が国道からすぐ近くであったことを今の今まで知らなかった。
わたし達が訪れた時は,人影も少なく風も冷たいし史跡をざっと眺めて小用を足したり,おみやげ屋を覗いたりして次の訪問地「松代」に向かった。妻は,”乾しあんず”と”しそ巻きあんず”を大量買い込む。
さて,この戦いの状況を「看板説明」から以下に転記しておく。
永禄4(1561)年の合戦は,信玄と謙信が一挙に勝敗を決すべく両軍合わせて3万3千もの軍勢が激突した凄まじい戦いである。信玄が4月、信濃守護の名のもとに信濃に進出し割ヶ獄城を落としたのがこの大合戦の起因である。上杉軍は8月16日に海津城(松代城)の向かい妻女山に11万3千の陣を置き武田軍は茶臼山から8月29日に海津城に入り兵力を2万とした。
武田軍は山本勘助の案により軍を二隊に分け一隊が夜陰にまぎれて妻女山に進み奇襲攻撃をかけ上杉軍が山を下るのを残る一隊が待ち受けて八幡原で撃つ「きつつき戦法」を計画したが,上杉軍はそれを見破って9月9日の夜ひそかに山を下って雨宮から千曲川を渡った。(鞭声粛々夜河を渡る〜♪のくだりである)
9月10日川中島は霧の深い朝だった。上杉軍の予期せぬ攻撃と「車がかりの戦法」によって武田軍はゆるみ大混戦となり「鶴翼の陣」を敷いて応戦したが,大苦戦を強いられてしまった。しかし妻女山へ向った別働隊の到着によって攻守は完全に逆転し上杉軍は善光寺へと敗走したのである。
そんな中で両将一騎打ちが戦いのハイライト。萌黄の洞肩衣を着け頭を白い布で包んだ騎馬武者の謙信が間髪入れず信玄めがけて三度斬りつけた。信玄は持っていた軍配団扇でとっさに受けとめたが後で見ると刀傷が7ヶ所もあったという。
この合戦は信玄の弟典厩信繁をはじめとして6000余名が戦死した大激戦であったが結局勝敗はつかなかった。
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