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上田城とおそば別所温泉松代善光寺小布施 | 

           川中島古戦場

 朝ごはんを早くしてもらって7時50分,宿のマイクロでバス乗り場へ。
あれっ!旅館のすぐ裏だった〜,歩いても3分とかからないよ!運転手さんごめんなさい!
 今日は,JRバス関東のびゅうバス[善光寺精進料理と北信濃ロマン街道]というバスツアーで一日を過ごし夕刻長野駅から新幹線で帰京する予定。
 50人乗りくらいの赤いびゅうバスのお客はわたし達八人と兄弟二人の10人だけ。ガイドさんは年配の女性(木村さん),いわゆるガイドっぽい説明ではなく話しかけるような口調で経験・知識豊富な好感の持てる方であった。
 8時10分の定刻よりも早く別所温泉を出発。右手に信州妙義と呼ばれる独鈷山(とっこさん 1266)を眺めながら上田市街地の手前左折,千曲川左岸を北上。しばらくすると,いつも信越線の車窓から眺めていた特徴ある崖地形が現われる。頂上が平坦で半島状に千曲川に突き出し,ストンと落ち込んでいる崖(わたしはひそかに”千曲川のローレライ”と呼んでいる)である。「岩鼻」と呼ばれていると言うことが分かった。岩鼻の成因などが長野県の地学→長野県の地学ガイド→東信地方 半過岩鼻の奇観に詳しい。
 更に北上すると正面に北信五岳(飯綱,戸隠,黒姫,妙高,斑尾)のうちの飯綱山がくっきりと見えてくる。坂城大橋で千曲川右岸に渡り国道18号を更に北上。あんずの里 森で有名な千曲町に入る,まだあんずの花は盛りにはなっていないようで,道端にわずかに開花しかかった杏の木が2,3本見られた。
 篠ノ井大橋を渡って長野市に入る。右手に長野オリンピックに開・閉会式会場となった長野オリンピックスタジアムや,フィギュアスケート会場であったホワイトリングを望んで右折,八万原史跡公園,いわずと知れた川中島古戦場である。

【長野オリンピックスタジアム】

 日本中に感動を呼んだオリンピックの開閉会式会場。日本の国花「さくら」の花びらをイメージしたスタジアムで,正面の聖火台には今も記念写真を撮りに訪れる人の姿が絶えないという。

【ホワイトリング】

 五輪でのフィギュアスケート,ショートトラックスピードスケート会場で善光寺平に落とされた大きな水滴をイメージ。現在は市民体育館として使用されている。

 世に有名な川中島古戦場は,永禄 4年(1561年) 9月10日に行われた第四次川中島合戦で 上杉・武田両軍が死闘を展開した場所である。現在は 「八幡原史跡公園」 として八幡社 を中心にきれいに整備されていて広い駐車場と土産物屋が軒を連ねていた。国道18号線のこの辺りは若い頃から何回も通っているが,川中島古戦場が国道からすぐ近くであったことを今の今まで知らなかった。
 わたし達が訪れた時は,人影も少なく風も冷たいし史跡をざっと眺めて小用を足したり,おみやげ屋を覗いたりして次の訪問地「松代」に向かった。妻は,”乾しあんず”と”しそ巻きあんず”を大量買い込む。
     
 さて,この戦いの状況を「看板説明」から以下に転記しておく。
 永禄4(1561)年の合戦は,信玄と謙信が一挙に勝敗を決すべく両軍合わせて3万3千もの軍勢が激突した凄まじい戦いである。信玄が4月、信濃守護の名のもとに信濃に進出し割ヶ獄城を落としたのがこの大合戦の起因である。上杉軍は8月16日に海津城(松代城)の向かい妻女山に11万3千の陣を置き武田軍は茶臼山から8月29日に海津城に入り兵力を2万とした。
 武田軍は山本勘助の案により軍を二隊に分け一隊が夜陰にまぎれて妻女山に進み奇襲攻撃をかけ上杉軍が山を下るのを残る一隊が待ち受けて八幡原で撃つ「きつつき戦法」を計画したが,上杉軍はそれを見破って9月9日の夜ひそかに山を下って雨宮から千曲川を渡った。(鞭声粛々夜河を渡る〜♪のくだりである)
 9月10日川中島は霧の深い朝だった。上杉軍の予期せぬ攻撃と「車がかりの戦法」によって武田軍はゆるみ大混戦となり「鶴翼の陣」を敷いて応戦したが,大苦戦を強いられてしまった。しかし妻女山へ向った別働隊の到着によって攻守は完全に逆転し上杉軍は善光寺へと敗走したのである。
 そんな中で両将一騎打ちが戦いのハイライト。萌黄の洞肩衣を着け頭を白い布で包んだ騎馬武者の謙信が間髪入れず信玄めがけて三度斬りつけた。信玄は持っていた軍配団扇でとっさに受けとめたが後で見ると刀傷が7ヶ所もあったという。
この合戦は信玄の弟典厩信繁をはじめとして6000余名が戦死した大激戦であったが結局勝敗はつかなかった。

【信玄・謙信一騎打ちの銅像】
 

 馬上で太刀を振り下ろそうとしている 謙信 とそれを軍配で受け止めようとする信玄の躍動感溢れる像。
 この逸話は「甲陽軍鑑」によるもので真偽の程は明らかではないが,カッコいいですね!
まあ 歴史のロマンとして受け入れておきましょう。
 
【三太刀七太刀之跡の碑】
 

 謙信は乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て,旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。
馬上より流星一閃,信玄は軍配で受けたが続く二の太刀で腕を,三の太刀で肩に傷を負った。後でこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ,この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。
(看板資料より)