愚者は学ぶことを恥とし、賢者は学ばないことを恥とする、チベット語

友人にベルクソンを読むことを薦められて、まず『時間と自由』を買った。

読みはじめてみたもののさっぱり頭に入ってこないので、入門書として評判がいい文庫本を図書館で借りてきた。

本書の前半はベルクソンの評伝。短いけれど、これが面白かった。講義が大人気で教室の開けた窓の外で聴講した人もいたという話、にもかかわらず、ベルクソン自身は教えることに特段関心を持っていなかったことなど、ユニークな逸話が興味を引いた。

伝記を読むのは楽しい。私は哲学の中身よりも哲学者がどう生きたかに興味を持つ傾向がある。哲学そのものを理解する力が足りないせいもきっとあるだろう。

『時間と自由』の解説や入門書を読んでみると、ベルクソンの哲学は「直感」「直覚」という考えが基礎にあるらしい。そこから「純粋経験」を基礎とした西田幾多郎とのあいだに関連を見る人もいる

フランス哲学で「直覚」に基礎を置く、という点から、「経験」という概念を重視した森有正に影響を与えたことも想定できる。実際、森有正はベルクソンについて頻繁に言及している


評伝のなかで最も興味を引いたのは、ベルクソンが晩年、カトリックに傾倒していったということ。カルヴァン派の信徒だった森有正も「夢の中で僕はカトリックに改宗していた」と日記に書くなど、カトリックへの改宗を何度も考えていた

この点からも、ベルクソンと森有正のあいだに何らかの繋がりを見出すことは的外れではないだろう。

そして、いまさら言うまでもなく、西田幾多郎は禅に思索の基盤を置いていた。三者には宗教哲学という共通項があると言っても過言ではないだろう。

しかし、ここで私の思索は止まる。ベルクソンの哲学も理解できていないのに、彼の宗教哲学について論じる力も資格もない。

ただ、私は広い意味で改宗した人、無宗教から宗教へ入っていった人に興味を持っている。宗教に関心を持ちながら特定の宗教に入信していない私は、ある人がある宗教に傾いていく理由や過程に興味がある。その理由は自分でもわからない。

学生時代に出会った優れた教師のなかに何人かクリスチャンがいたことも理由の一つかもしれない。幼い頃から魂の救済を求めて彷徨っていることも否定はしない。

言葉を換えれば、「哲学」より「思想」に興味がある。考えた事柄ではなく、考えながら生きる姿勢をよく知りたい。

ベルクソンについても、彼の「哲学」よりも彼の生きる姿勢、彼の「思想」をもっと知りたい。


さくいん:西田幾多郎森有正

写真は東洋文庫ミュージアムにある知恵の小径からチベット語の箴言。

愚者は学ぶことを恥とし、賢者は学ばないことを恥とする