碧い海

西村稔『丸山眞男の教養思想』。主題は教養思想にあるけど、それ以外に興味深い論点があったので一瞥しておく。

それは丸山眞男のコスモポリタニズム観について。以下は同書読後のメモであり、丸山の一次資料にあたった論考ではない。


これまでは、丸山眞男の根本思想は「敗戦後の日本の民主化」にあり、日本国民を民主化することに重点を置いていて、世界市民という概念はその思考の中にはないととらえていた。

今回、西村の論考を読み進めていくうちに、それは間違いであることに気づいた。

丸山ははっきり「世界市民」の概念、すなわちコスモポリタニズムを持っていた。しかも、それは国民の民主化の「あとで」形成されるものではなく、「同時に」育成、ないしは醸成されるものであることがわかった。

一番、端的な言葉は、次の一言。

"日本のなかに世界がある"、隣の八さん熊さんが人類なのだ

従来、丸山の日本人観は平板で、アイヌや在日韓国・朝鮮人を見落としていると批判されてきた。「多様な」「日本住民」のイメージが欠如していると指摘されてきた。

上の言葉を見ると彼の日本人観、さらに言えば人間観がすこし違ってみえる。隣人は外国人かもしれない、という考え方は現代の日本でもまだ行き渡っていない。いわゆる戦後といわれる1950年から60年代ではなおさらそうだったろう。

こういう言葉を丸山が発していたことには少々驚いた。

丸山のコスモポリタニズムをもう少し詳しくみる。

丸山は、外国(とりわけ特定の国)に普遍性を見出し、それに「いかれる」擬似普遍主義(外発)と、それへの反動として「伝統」を担ぎ出す土着主義(内発)との対立の基礎にある「日本対外国」という発想の悪循環、ないし国粋と欧化、排外と排外の「振り子運動」を断つべく「"本当の"普遍主義」もしくは「"本来の"コスモポリタニズム」の立場を標榜(した)(第3章 丸山の欧化主義)

「コスモポリタニズム」という言葉を直接使っていたことにさらに驚いた。

丸山のコスモポリタニズム、すなわち世界市民観は、日本国民であると"同時に"世界市民である、という考え方。

力点の置き所によって分けるとすれば、<世界の中の日本>は、主として(福澤の論理に従って)国際的なナショナリズムと日本の「主体性」を確保しようとする視点であり、国家(愛国心)を内蔵しているのに対して、<日本の中の世界>は、主として(内村に基づいて)国家を超えた、個人と世界(普遍)が直接向き合う地平を示すための装置であった。そしてこの理想に到達するためには、「擬似普遍主義」(<現代の欧化主義>)と「土着主義」(<現代の鎖国主義>)という<原型的思考様式>、すなわち「内外」思考を撃たなければならなかった。(第3章 丸山の欧化主義)
丸山は、コスモポリタニズムの唱道にもかかわらず、ナショナリズムをしりぞけていない。「内外」思考の否定はむしろ、「インターナショナル」と「ナショナル」を結びつけることを意味する。(第3章 丸山の欧化主義)
「主体的決断」によって、あらゆる集団の所属ナショナリズムを「一身独立して一国独立す」のナショナリズムに切り替えて行くこと、「永久革命的課題」としてのパトリオティズムであり、別言すればインターナショナルなナショナリズムであった。(第3章 丸山の欧化主義)

"同時に"という点は重要。国民になってからのちに世界市民になる、という考え方もある。ルソー『社会契約論』が一例。私の理解では、『社会契約論」の主張は、まず人間を国家に従属させ国家だけを生きる場とする国民とする。その後、国民の意思を"一般化"する。

注意すべきは「一般意志」に国民個人の意思を譲渡するのではない、ということ。国民の意思を一般化させることにより、国民は国家の枠を越えて、国際関係に対しても平和的に思考できる世界市民的国民になる。


「国民」であると同時に「世界市民」である。これはマーサ・ヌスバウム『国を愛するということ』で「われわれはコスモポリタンであると同時に愛国者であるという以外に選択の余地がない」とチャールズ・テイラーが主張していた。

国民と世界市民をめぐる議論は、食糧難や気候変動など地球全体にかかわる問題が喫緊となっている現代に求められている。

国民と世界市民を対立させない丸山眞男のコスモポリタニズムは古くて新しい。

まだ研究の余地があると思う。


さくいん:丸山眞男ジャン=ジャック・ルソーマーサ・ヌスバウムチャールズ・テイラー