7/30/2017/SAT
初夏の横浜、裏表
横浜・地図にない場所--消えたものから見えてくる、ハマの近代--、横浜開港資料館、横浜市中区
横浜タイムトリップ・ガイド、山崎洋子、横浜タイムトリップ・ガイド制作委員会編、斎藤多喜男監修、講談社、2008
九州北部では豪雨で災害になっている一方、関東地方は空梅雨が明けてそのまま真夏のような暑さに突入した。
土曜日の朝、早起きをして横浜の日ノ出町町から大桟橋まで散策した。気持ちは旅番組「初夏の横浜、裏表」の取材。
出発は港横浜の裏口、京急、日ノ出町駅。みなとみらい地区を表とすれば、日ノ出町駅から黄金町駅、地下鉄の伊勢佐木長者町までの地域は横浜の裏側。
スナック、質屋、場外馬券売場、日本語表示のない食堂、風俗店案内所⋯⋯⋯⋯。
撮影は控えたが、開店待ちで長い行列がパチンコ店の前にできていた。それも、一店や二店ではない。早く入店すると勝つ確率が高い台を選べるのか。パチンコを嗜まないのでわからない。
朝早いのに、馬券販売所にもすでにたくさんの人がいた。
レストランは韓国料理と中華料理が多い。店が多いので、それぞれ特色を出している。
中華料理では各地の料理。東北とは旧満州のことだろう。まったく日本語のない看板もある。ここまでが裏の街。
実際にはさらにディープな場所もある。今回は撮影しなかった。
表の顔と裏の顔を持つ街は横浜だけではない。港町はどこもそう。神戸もそうだった。
伊勢佐木町にはよく買い物に来ていたし、中学時代は市民体育館で大会があったので、横浜の裏の顔は早くから知っていた。
大会の帰り道、伊勢崎町商店街で百円のラーメンを食べたことを覚えている。
私が小学生の頃、我が家では、本といえば有隣堂、家具といえば双葉家具、だった。
この建物は中にも特徴がある。古いエレベーターに、広い吹き抜けの囲む中二階。
早朝なので、店はまだ開いていない。
所々に横浜の名所や港に関連するタイルが路地を飾っている。
三井物産横浜支社。港が貿易の中心だった明治大正時代には多くの商社や銀行の本社が横浜にあった。
神奈川県庁、通称King。
この二つの建物の前を貫通しているのが6車線の「日本大通り」。
1905年(M38)に生まれ、丁稚から40年以上働いて課長になった祖父が最後に勤めていた横浜港郵便局。銀行同様、貿易の中心地だった時代には重要な郵便局だった。
「大卒の本省職員との付き合いが難しい」と父に話していたという。祖父は、郵便局を退職した後も請われて地元の銀行にしばらく勤めた。
横浜開港記念館、通称Jack。中は貸会議室。今日はQueen(横浜税関)のそばまでは行かなかったので写真は撮れなかった。
学徒動員で今の「こどもの国」で爆弾を作っていた父は、戦後、GHQが来る前に横浜税関の「掃除」に駆り出された。いわば「証拠隠滅」。そのとき、未使用の写真用乾板をもらったのか、くすねたかして帰ったという。その頃から化学に興味があったらしい。
後に父は大学で応用化学を専攻し、天然ガスの技術者になった。
陽が高くなってきて、歩いていると汗が噴き出してくる。
タオルを忘れて出てきたので、開港資料館の土産物を買った。
海岸横浜教会。1875年(M8)の鐘を現在も使用。月数回、内部も公開されている。
鐘楼の庇と塔の庇が二重になっているのが特徴と説明板にある。薬師寺東塔の裳階のようなものか。
横浜開港資料館。元は英国総領事館。企画展示は「横浜・地図にない場所--消えたものから見えてくる、ハマの近代--」。
開港地としてアメリカは神奈川を希望した。現在の京急、中木戸駅付近は東海道の宿場町だったので、江戸城まで一直線に攻め込まれる危険があった。そこで幕府は寒村だった横浜を開港地にした。この話は『ブラタモリ」でも見た。
外国と貿易をする港ができて、横浜から消えたものがある。今回の展示は年代のちがう古地図を並べて、開港して地図から消えたものを紹介する。
開港して横浜からなくなったもの。
- 浜辺
- 弁天社
- 塩田
- 魚市場
- 元町百段(階段)
- 監獄
- 吉田川・新吉田川
- 入船町
- 海水浴場
開港のあとも、関東大震災と太平洋戦争の空襲で多くの建物や名所が失われた。
よく知られたKing, Jack, Queen(県庁、開港記念館、税関)と県立美術館(元横浜正金銀行、東京銀行の前身、)は奇跡的に焼失しなかった。
日米和親条約締結の記念碑と開港年の刻まれた路地タイル。
横浜へ来た目的は大桟橋でこの船を出迎えることだった。資料館でゆっくりしていたら入港の時間が近づいてきた。
船だから完全に停泊するまでに時間がかかるだろうと高を括っていたら、桟橋に着いたとき、もう下船が始まるところだった。
ふつう、船も飛行機も左舷から乗降する。右舷からの下船を見るのは初めて。
せっかく大桟橋まで来たので桟橋を一回り。大桟橋から見るベイブリッジを撮影した。
もう10年以上前、ここへ来て、そのときの気持ちを率直に書いた。
大桟橋の突端から眺めていると、二元論の世界が真実に思われる。古いものと新しいもの、暗いものと明るいもの。悪いものと善いもの、そして、死んでいる者と生きている者。これほど鮮やかに風景を見せられたことはない。
今、大桟橋の先端に立つと、過去、現在、未来を一度に見渡しているような気がする。過去には氷川丸、大桟橋に現在の自分、未来には70階建ての高層ビルが立つ人工都市、みなとみらい。
人は現在しか生きることができない。しかも、現在は瞬時のうちに過去になっていく。そして、予測したところで未来はその通りになるとは限らない。つまり、人は時を止めて過去や未来を見ることはできない。
だから、過去と現在と未来とが一つの景色になっている大桟橋に立つととても不思議な気分になる。一度、大桟橋から船に乗ったことがある。ベイブリッジをくぐるとき、振り返るとさっきまでいた大桟橋が遠くに見えて、そのときも不思議な気持ちがした。
「過去 - 現在 - 未来」を投影する一つの風景として横浜港を見渡すと、西田幾多郎が考えたことが無知な私にもわかったような気になる。それもまた不思議な気分。
現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未いまだ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而しかしてそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。(「絶対矛盾的自己同一」、一、1939)
横浜は私の故郷。その裏も表も、過去も未来も。
大桟橋を一回りして客船の横にもどる。
船上に二人の姿が見える。大声で呼ぶと手を振って応える。
この街を私のふるさとにしてくれた二人が船から降りてきた。
さくいん:横浜