誰か、止めてくれ


テレビ局社員が視聴率を買収していた事件が話題になっている。他局や新聞、週刊誌は、こぞって当のテレビ局に対する批判を盛んに流している。

いつもの同じ構図。「人のふりみて我がふり直せ」という諺は、ほとんど死語となっている。新聞屋は、ビール券を配り歩いているし、週刊誌は袋とじヌード写真を毎週企画しているというのに。数字のために質を問わないという姿勢は、もはや驚きに値しない。

誰もが自分のことは棚に上げ、他人のことばかり非難する。不祥事を起こす側も、謝ることばかり考えている。起きた不祥事については、再発防止を考える。しかし、それ以外には問題はないのか、全面的に点検するようなことはしない。また起きたら謝ればいいし、そうするよりない。

こうした事態は、マスコミ業界に限ったことではない。私自身も偉そうなことは言えない。自分が関わる仕事の隅々まで何が起こっているかを把握しているわけではないから。もちろん、法を侵しているとは思っていない。倫理的に間違ったことをしているとも思っていない。いずれも思っていないだけで、常に点検しているわけではない。


何を点検すればいいのか、どこまで点検すればいいのか、わからないほど業務は複雑で多岐にわたっている。自分の仕事が世の中全体のなかで、どういう位置にあり、どういう役割を果たしていて、どういう影響を及ぼしているのか、明確にわかっている人のほうが少ないのではないか。

そう考えながら、報道を見聞きすると、不祥事を起こした放送局をここぞとばかりに非難する他局や他のメディアが、自分を棚に上げて傲慢になっているのではなく、悲痛なうめき声をあげているようにみえる。

誰もがギリギリのところにいる。改善しなければいけないことが、たくさんあることはわかっている。わかっていても、不祥事でも発覚しない限り、生産性を下げることも、利益を落とすことも許されない。

だから誰もが、何となく待っている。何かが起こるのを、何かが発覚するのを。どこかで発覚すれば、徹底的に指弾する。まるで、こちらの病巣も早く見つけ出してくれ、とでも言うかのように。


飲酒運転に対する罰則が格段に厳しくなった。途端に、飲酒違反は激減した。近いうちに、運転中の携帯電話の通話も、即座に罰金の対象となるように厳罰化されるときく。電車内の携帯電話も厳しい法で規制すれば、止むのだろうか。

確かに、厳しい法には予防効果があるに違いない。しかし、規制されなければしてしまうという神経は何だろう。不祥事が発覚するまでは杜撰な修理を続ける原子力発電所、視聴率を買収するテレビ局、購読を無料にする新聞社、祝日ならば休むが、定時退社日でなければ残業する労働者。みな、根は同じではないか。


寺沢武一のSFマンガ『コブラ』に示唆深い短編がある(第9巻 黒竜王の巻、集英社、1981)。

レーサーのパメラ・リーは、双子の妹を交通事故で失って以来、走るものすべてに憎しみをもつようになった。日常は平静でいられるが、夜な夜な「黒い弾丸」に乗り込んでは、街を破壊する。彼女は、恋に落ちた宇宙海賊コブラに依頼する。「黒い弾丸を止めて」。真相を知ったコブラは決意する。「かの女はオレにたすけをもとめた……わたしをとめてくれと!!」。

装甲したマシンは、銃では止められない。コブラは妹の映像を轢かせてパメラに黒い弾丸のハッチを空けさせる。パメラの額を、コブラの左手に仕込まれたサイコ・ガンが撃ち抜く。

ギリギリのところにいる。それは実感だろう。毎日が綱渡りという実感は私にもある。しかし、ほんとうにギリギリのところにいるのか。せめてギリギリのところにいることがわかっているなら、ブレーキを踏むに充分ではないか。

自分の意志でも止められず、法律の助けを借りても止められないなら、あとはサイコ・ガンに額を撃ち抜いてもらうしかない。


碧岡烏兎