映画で考える戦争、奥田継男、ポプラ社、2001


映画で考える戦争

戦争は面白くはないが、戦争映画は面白いという著者は正直。反戦好戦、いずれにしても結末や主張が見え透いた作品は面白くないという指摘も頷ける。戦争映画が面白いのは、人間の最も汚い部分と美しい部分を暴き出し、割り切ることのできないドラマを描き出すからに違いない。

戦争には、単純な一面とそうでないところがある。単純なのは、とどのつまり戦争は欲望に原因があるということ。欲望の中でも、とくに本書でとりあげられた映画が描く現代の戦争はほとんどすべて、経済的な利権が根深い原因となっている。宗教、人種、民族対立、領土問題、イデオロギー対立と表面的にはさまざまな姿をとるが、背景には「金」をめぐるいざこざがいつもある。


欲望と一語で言えば単純だが、戦争を引き起こす欲望の内実は複雑。どんなに強力な独裁国家であっても一人で国の行動をすべて取り仕切っているわけではない。首脳や閣僚、官僚という支配層だけをとってみても、そこには多くの人がそれぞれ異なった思惑をもっている。

次のポストを狙う人、目前の金銭的な利益を求める人、生活のためやむを得ず組織に従っている人。さらにはそれをとりまく産業、国民感情、経済状況など、戦争の原因を説明するのは簡単ではない。

そのうえ各人、各層、各集団は自分の欲望を正確に把握しているとは限らない。また正確に把握していたとしても、その欲望の達成にかなった合理的な行動をとっているとも限らない。要するに、歴史は誰にとっても思い通りになどけっして進まない。

このことはもちろん、結果責任を否定するものではない。むしろ為政者、指導者、経営者など、およそ責任者と呼ばれる職務は責任をとるために存在するのであり、起こしたことだけでなく、起きたことについてまで責任をとらなければならないのは言うまでもない。


著者は大戦の原因について、「ロスチャイルド家が」「モルガン家が」と繰り返すけど事はそれほど単純ではないはず。一つの要因にばかり異常に肩入れしたり、ケネディ暗殺の理由の一つに宇宙人の存在などを持ち出したりするあたり、本書はいわゆるトンデモ本の匂いがしなくもない。

ところで、戦争だけでなく過去の事象を理解しようとするとき、はたして真実を知ることはほんとうにできるのかという疑問がどうしても避けられない。

北朝鮮による拉致問題や、しばらく前の旧石器時代遺跡の捏造問題からも明らかなように、一つの事実が暴露されることにより、それまでの認識を180度改めなければならなくなることは、しばしば起こる。歴史を学ぶために事実を知ることは大切だとしても、今見ている事実がすべてではないかもしれないとつねに肝に銘じておくことも必要だろう。

表面的な事象から一気に本質を見抜くこと、細かな事実をていねいに検証すること。「大胆にして繊細」が歴史を学ぶときに必要な姿勢だと思う。


はじめに書いたように、現代の戦争はほとんどが根底に利権争いがある。ところが、悲しく、また腹立たしいのは、末端で殺し合いに駆り出される人間にはその現実はまったく知らされず、大義名分が押し付けられて戦場に行くことを納得させられること。

そうして中には戦争に積極的に意義を見出し、喜んで戦争に参加する人もでてくる。そうした人々は、戦争の本質が明らかになったとき、大義名分とのギャップに驚き、さらには何も知らずに自分がしでかしてしまった殺人行為に苦しむ。

植民地人でありながら大東亜共栄圏の一端を担うつもりで戦争に参加し、戦後には恩給さえもらえずにいる植民地出身の元日本兵は、そうした悲劇の一例に過ぎない。

靖国神社にある遊就館を見学したとき、「あなたたちはよくやった」とも「あなたたちは間違っていた」とも言いかねる複雑な感想をもったことを思い出す。


小林秀雄は「きけわだつみのこえ」について書いた短い文章の中で、「人間らしい物語を創り出すことのできるような戦争も実際に可能だった時代もあったのである。しかし、今となってはもう駄目だ。」と述べている(全集 第九巻)

利権のからまない、ほんとうに信条だけを理由にした「正しい」戦争が、確かに過去のどこかにあったのかもしれない。それが現代では成立しない理由は、小林が指摘するように兵器の過剰な発達によるところが大きいかもしれない。だが、けっしてそれだけではないような気がする。


碧岡烏兎