北上市立博物館みちのく民俗村
岩手県北上市立花14-59

菅野家住宅  国指定重要文化財 (昭和40年5月29日指定)
旧所在地・岩手県北上市口内町長洞
建築年代/享保13年(1728)
用途区分/農家(大肝入)
指定範囲/主屋・表門
北上市街から東方の山間部に位置する口内町に残されていた旧仙台藩領大肝入の屋敷である。地元では中村屋敷と通称されていたとのことである。当家には江戸中期の享保13年(1728)に記された普請帳が残されており。建築年代が明確な県内民家の指標となる存在となっている。また家格に相応しく薬医門形式の表門が附属するが、こちらは主屋に先立つ享保5年(1720)の建築で更に古い。内部は下手半分が土間となっており、6本の独立柱が立ち古式である。床上部は座敷部として「上座敷」、「下座敷」を備え、日常生活空間として「なかま」、「おかみ」の広間的空間に加え、寝間2室と納戸等の計7室から成る。建築年代の割に部屋数多く、決して単純でない間取りは、大肝入という上層農家の屋敷ゆえのことであろう。
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北川家住宅 北上市指定文化財 (平成13年2月23日指定)
旧所在地・岩手県遠野市土淵町栃内字火石
建築年代/江戸末期(報告書には18世紀中期頃の記述)
用途区分/農家・山伏
指定範囲/主屋
遠野市街の北東郊外の山間部に位置する土淵町栃内に所在していた修験者の家である。屋敷があった火石集落は遠野城下から太平洋岸の宮古方面に向う旧大槌街道沿いに位置し、土淵の各集落に街道が分岐する要衝地であった。当家は柳田国男が著した遠野物語にも登場し、当主について「代々の山伏にて祖父は正福院と云い、学者にて著作多く、村の為に尽くしたる人なり」と紹介している。物語への登場には相応の理由があり、当家が遠野物語成立の真の立役者であり、伝承物語の話者であった佐々木喜善の母親あるいは祖母を輩出した家であったことに他ならない。その佐々木喜善の生家も旧所在地付近に今でも残されている。住宅は遠野地方に典型的な曲り家ではあるものの、修験者の家に相応しく座敷最奥部には祈祷部屋を備えている。また「常居」の奥に独立した正方形の小室「座頭部屋」が配され、他に類を見ない不可解さが興味を引く。
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今野家住宅 北上市指定文化財 (平成17年1月4日指定)
旧所在地・岩手県奥州市江刺区梁川舘下
建築年代/江戸末期〜明治初期
用途区分/商家




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大泉家住宅  北上市指定文化財 (平成9年8月28日指定)
旧所在地・岩手県北上市口内町荒町
建築年代/文化14年(1817)
用途区分/在郷武家
指定範囲/主屋
旧仙台藩領を逍遥していると要害という地名に出くわすことが多い。要害とは城郭に準ずる陣屋の様なもので、仙台藩では藩内の戦略的重要地を藩の門閥・大身の上級家臣に給地として与え、彼らに地頭領主として家臣団を配備させ、一定の行政権、裁判権の行使を認める制度を採っていた。これを要害制度と呼ぶが、一般に云うところの地方知行制である。当住宅は北上市街から東に8km程の位置にある口内町に所在していた旧武家屋敷であったが、口内もまた南部藩領との藩境の町として要害が置かれた場所。口内邑主として配された中島氏は伊達一族に列する禄高1700石の譜代の家臣で、当住宅はその中島氏の筆頭家老職を務めた大泉家の住居である。大泉氏の禄高は50石、中島氏の家臣団の中にあっては最上位のものであった。主屋は茅葺寄棟造で、妻側に式台玄関を設け、道路側に面して下座敷、上座敷を配する。小禄ながら要害内における最上級職を務める武士としての体面は辛うじて保たれた造作である。
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菅原家住宅 北上市指定文化財 (平成18年10月2日指定)
旧所在地・岩手県一関市川崎町薄衣字妻の神
建築年代/江戸中期(18世紀中頃)
用途区分/農家・神官
指定範囲/主屋・中門
嵯峨峯屋敷と呼ばれた上層農家
一ノ関の陣屋町から国道284号線沿いに東へ進むと東磐井郡の中心地であった千厩町に至る。その少し手前に当住宅が所在していた旧川崎町薄衣地区は所在する。名も無き山間地と云っても差し支えない土地柄であるが、当家は屋敷地から3km程南方に位置する烏森山の頂上に祀られた烏森神社の里宮であった金烏神社を屋敷地内に勧請していたことから、近郷近在のみならず、石巻からも参拝者があったと伝える。金烏神社は「下の病」に御利益があったらしいが、神官として仕えた当家としては、その御利益に預かろうとする輩の参拝を果たして歓迎していたのであろうか。正直、今の感覚ではできれば遠慮願いたい類である。ただ、当家は中世以来の武士的勢力を出自とする草分け百姓であったと推察され、そうした面影が主屋の規模や長屋門の存在からも窺われるところであるが、人の往来こそが繁栄をもたらすものとの考え方も無いわけではない。
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小野寺家住宅 北上市指定文化財 (平成18年10月2日指定)
旧所在地・岩手県八幡平市荒木田
建築年代/明治34年(1901)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
県都・盛岡から西の方角を望めば、そこには常に秀麗、且つ雄大な岩手山が鎮座している。その北側一帯は山岳リゾート地として開発され、八幡平の名で全国的に知られる土地柄であるが、当家が所在する旧西根町域の谷地中集落は、そうした煌びやかな世界とは無縁の、その名が示すとおり丘陵地の間に湿地が拡がる稲作と酪農を主とする純農村地帯である。屋敷は丘陵裾の平坦地に在り、主屋は桁行12間半、梁間4間半の東西に細長い直屋建築となる。この地域は曲屋も混在する地域ではあるが、当住宅の場合は、土間の下手に建築的に独立する馬屋をそっくり取り込むような形を採ったため、棟の長い外観となったようである。当住宅は明治後期の比較的新しい建築ながら上手の座敷回りに不可解な造作が見られ、特に下座敷において、この部屋にのみ根太天井を張って中二階を設けていたり、上座敷と常居の接続部を除く壁面を土壁で囲む閉鎖的な設えとしている。また、中二階の採光の為に茅屋根の軒を、その部分のみ切り上げる様子も余り普通ではない。これが近世民家には無い「家の個性」というものなのだろうか。
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星川家住宅  北上市指定文化財 (平成18年10月2日指定)
旧所在地・岩手県紫波郡矢巾町北伝法寺
建築年代/江戸後期〜末期頃(推定)
用途区分/農家
指定範囲/主屋・便所
盛岡市の南方、矢巾町の北谷地山の裾野に所在する農家建築である。当家が所在する伝法寺の字名も然り、周囲には杉の坊、藤の坊、阿弥陀堂などの字名が見受けられ、神社仏閣も多く点在することから、歴史深い土地柄であったことが想像される。


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菅原家住宅  北上市指定文化財 (平成10年10月16日指定)
旧所在地・岩手県和賀郡西和賀町大沓
建築年代・明治後期
用途区分/農家
本民家園が所在する北上展勝地は、その名付けのとおり北上川と和賀川が合流する頗る眺望の拓けた風光明媚な場所である。その一方の和賀川を西に向かって秋田との県境近くまで遡ると秋の頃の紅葉が美しい湯田温泉郷へと至る。当住宅は温泉郷の一画にある大沓集落に所在していた標準的な農家建築で、明治後期の比較的新しい建築ながら、積雪3mを超える豪雪地帯に所在し、民俗学的な価値を有すると評価されている。豪雪地帯民家としての特徴は、大戸口前に中門と称する切妻屋根の突出部を設けることで積雪期の家からの出入りを確保している点、梁を前後に突き出してセガイとすることで軒高を上げ、茅屋根が雪に浸らぬようにしている点、太い柱に梁は二重梁とし、積雪に耐えられる構造としている点等が挙げられるが、私は何よりも寝部屋の配置の面白さに注目している。通常は裏手の壁に沿って設けられることが多い寝部屋が、外気と接することのない家の中央部に1間四方の極狭の空間として設けられる例は他に類を見ないもので、本当に寒かったんだろう、と同情の念を抱いてしまう。
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佐々木家住宅  北上市指定文化財 (平成12年3月17日指定)
旧所在地・岩手県一関市大東町渋民
建築年代/江戸中期
用途区分/葉煙草栽培農家
移築建物/主屋・馬屋
当住宅が所在した大東町渋民は世界遺産平泉中尊寺より東に20km程に位置する山間地で、江戸期は仙台藩領に属した地域である。仙台藩では藩の特産品として葉煙草の生産を奨励し、一帯で採れる葉煙草は「東山煙草」として藩の御料煙草となっていた。当家も江戸期には葉煙草生産に従事していたらしく、住宅の随所に葉煙草農家としての特徴を残している。例えば、煙草葉を室内で乾燥させるために屋内の間仕切りを最小に留めて通気性を確保していること、煙草葉の束ね作業等のために建物の半分が土間に充てられていることなどが挙げられる。こうした特徴は、単に建物を見ているだけでは判りづらく、生業との関係性を示唆する歴史的な背景が説明されることによって初めて合点がいく事柄である。当住宅の場合は、実際に建物前の畑で煙草草を育て、収穫後には屋内で乾燥させてもいる。折角だから園内で煙草を吸わせてくれたら嬉しいのだがなあ。
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寺坂御番所  北上市指定文化財 (平成15年5月1日指定)
旧所在地・岩手県北上市稲瀬町内門岡
建築年代/江戸中期(元禄3年頃と推定)
用途区分/藩境御番所
ふるさと民俗村から東方に佇む国見山を隔てた稲瀬町内門岡集落に所在していた旧番所建築である。昭和48年に解体、部材保管される以前には地元農家が明治2年の分家の際に払下げを受けて北西100m程の土地に移築、民家として活用していたらしい。ちなみに民家村への移築は10年後の昭和58年のことであるが、解体の際の調査では当住宅の建築に関わる墨書き等の痕跡は一切発見されず、専ら地元の伝承と、建物の間取りや造作から番所建築とみて間違いないと判断された。旧所在地の内門岡に番所が設けられたことは史料的に明らかにされており、元禄3年(1690)に南部藩領との境界監視のために仙台藩領側の番所として下門岡村の寺坂に境屋敷を整備したとある。先述のとおり棟札等は未発見で建築年代も詳らかではないが、梁間が小さいこと、部材が手斧削りであること、閉鎖的な間仕切り方法であることなどから番所が設置された頃の建築がそのまま残っていると推察されている。この事実の裏付けさえ取れれば、当住宅の建築史的価値は格段に上がること間違いないのだろうが。
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